【KISSTORY】1973年 ROCK STEADY

KISSTORY

■The Daisy 1973/6/8、1973/6/9、1973/6/15、1973/6/16

1973年6月8日、9日、15日、そして16日のThe DaisyでのKISSのライブは特に注目に値する。6月16日のライブは当時のローディだったエディー・ソランによって録音されており、40年後の2013年にブートレグとして世に出回った。これは、おそらくKISSのライブ音源としては最古のものではないかと言われている。また、この6月のThe Daisyでのライブは、ニューヨークでメジャーなエンターテイメント・ガイド誌であるVariety誌でも取り上げられていた。

興味深いことに、”FIREHOUSE” の前にピーターが「メーリングリストがあるから、そこに名前と住所を書いておいて!後でボクらのこのファッキン・フェイス・ポストカード送るから!」と観客に呼びかけているのが録音されている。全編を通して、ポールよりもピーターの方が観客に話しかけている様子が伺え、新鮮な印象を受ける。

■Hotel Diplomat 1973/7/13、1973/8/10

ジーンは、ライブ活動をしながら、なんとかマネージメント会社とレコード会社との契約を勝ち取りたいと必死だった。Eddie Kramer が録音したデモテープ、自作のプレスキット(バンドのイメージ写真やバイグラフィなどをまとめた小冊子)、過去のライブのレビュー(本人が執筆したものではあったが、まるで第三者が書いたかのような記述だった)、そして8月に予定している Hotel Diplomat で開催されるショーの無料チケットをセットにして、レコード会社やマネージメント会社に送付した。さらに、自分たちの個性的な演出は音楽業界だけではなく、メディア全体からも注目を集めると確信し、テレビ関係の会社にも送付していた。(幼い頃からテレビが好きだったジーンの情熱が、この行動を後押ししていたのかもしれない。)

そんな中、ジーンからの封筒を手にした一人が Sean Delaney(ショーン・ディレイニー)だった。ミュージシャン、作曲家、振付師、テレビ演出など、マルチな才能を持つショーンは、Bill Aucoin(ビル・オーカイン)が設立したマネージメント・オフィスに所属していた。ショーンはジーンからのパッケージを受け取り、ビルに向かって笑って言った。「なぁ、ビル!こんな面白いことを仕掛けてくるヤツらがいるぞ。彼らのライブ、見に行ってみようぜ!

Bill Aucoin はこれまでテレビ業界で活躍し、番組のディレクターやプロデューサーを務めていた人物だ。

一方、同時期にブッダ・レコードの Kenny Kerner(ケニー・カーナー)も、エレクトリック・レディ・スタジオの Ron Johnsen(ロン・ジョンセン)から封書を受け取っていた。ブッダ・レコードには毎週、数多くの若手ミュージシャンからデモテープが送られてきており、ケニーはそれらを週末に自宅に持ち帰ってチェックするのが仕事だった。ケニーの目に止まらなければ、テープはゴミ箱行きだった。ロンから送られてきたオープンリールのテープを自宅のプレーヤーにかけ、封筒に入っていた白黒写真を眺めたケニーは、「なんだ、この変わったルックスは?」と興味を引かれた。しかし、曲を聴くと、その印象は一変した。「曲作りも本格的で、演奏も生々しくてストリート感がある!これは月曜日にニールに、こいつらと契約すべきだと話さなければ!」と思った。※ニールとは、当時ブッダ・レコードに所属し、間もなく自身のレコードレーベルを立ち上げる計画を持っていた Neil Bogart(ニール・ボガート)のことだ。

Hotel Diplomat は、1973年当時はすでに老朽化が進み、廃れかけたホテルだった。かつての華やかさは失われ、貧困層向けの賃貸住宅として利用されることが多かった。2階の大広間、クリスタル・ルームはかつては盛大なパーティー会場として賑わっていたが、今ではあらゆるイベントを引き受ける会場と化していた。昼間に訪れても薄暗く、トイレではネズミの姿が見られるほどで、床は腐り始めており、ステージも歪んでいた。そんな劣悪な環境にも関わらず(あるいは、だからこそ)、当時のニューヨークのロックバンドにとって、Hotel Diplomat は格好のライブ会場だった。何よりも、レンタル料が安かったからだ。ライブ活動を始めたばかりのバンドにとっては、やや規模が大きいホールだったが、ジーンはこの会場でのライブに賭けていた。数多くの業界関係者に招待チケットを送り、KISSのライブを観に来てほしいと願っていたのだ。

KISSの成功をメンバー全員が望んでいたが、特にピーターは人一倍切実だった。7月13日のショーの後、スタッフに漏らした言葉がそれを物語る。「俺ももう28歳だ。何かが起きなければ。」そう、1973年当時、ピーターはすでに28歳で、KISSでのブレイクを心から願っていたのだ。

1973年7月13日の Hotel Diplomat でのショーでは、The Planets がオープニング、KISSがミドル、The Brats がヘッドラインを務めた。8月10日には、Street Punk がオープニング、Lugar がミドル、KISSがヘッドラインというラインナップだった。

招待した業界関係者の注目を集めるため、ポールとピーターは黒いTシャツに衣料用糊でKISSのロゴを描き、グリッターパウダーを振りかけて簡易なKISS Tシャツを作った。そして、ピーターの姉妹や友人たちにそれを着せ、固定ファンがいることをアピールした。さらに、友人たちは100個以上の風船を買い込み、KISSのロゴとメンバーのメイクアップを模したイラストを描いた(まるでKISSのマーチャンダイズの原型のようなものだ!)。そして、ライブが始まるのを心待ちにしていた。

この Hotel Diplomat でのショーから、ポールは右目に星形のメイクを描き始めた。このデザインを最初に考案したのはエースだったが、ポールがそれを譲り受け、自分のメイクに取り入れたのだ。このデザインが自分自身を最も反映していると思った。当初は両目に星形を描いていたらしいが、エースのメイクと似てしまうため、片方だけのメイクに変更した。初めて片目だけの星形メイクをしたとき、ジーンは「おい、片方はどうした?」と尋ね、ポールは笑いながら「どっかで落としてきた」と答えた。

The Planets の演奏が終わると、いよいよKISSの登場だ。メンバーは、最前列の観客が自分たちのロゴとアイコンが描かれた風船を持っているのを見て、驚きと喜びを隠せない。ショーが始まると同時に、それらの風船が会場中に放たれた!ジーンはステージ上で風船を踏み潰し、ポールはサッカーボールのように客席に向かって蹴り上げた。ジーンはモンスターになりきって、舌を出したり、首をトカゲのように振ったり、ステージ上をドタドタと歩き回った。後年、ジーンはこう振り返っている。「俺は体格が良かったから、ミック・ジャガーやビートルズのような動きをしても似合わなかったんだ。そこで、映画『20 Million Miles to Earth (地球は2千万マイル)』に登場する金星から来たモンスター、イーマの動きをマネしたのさ!」

この1973年8月10日のショーは、KISSの運命を大きく変えることになった。このショーには、デモを録音してくれたエディー・クレイマーだけでなく、ビル・オーカインとショーン・ディレイニーも観に来ていたのだ。

エディ・クレイマーはショーの途中で、ミキシングボードを担当していたエディー・ソランのもとへやってくると、ドラムの音量バランスについてアドバイスを送った。「マイクを持ってきて、スネアドラムの上に置いてこい!キックドラムの音量も上げろ!」と。なんと贅沢な助言だろうか。

ビル・オーカインは会場に入ると、最前列にいたピーターの姉妹(2人とも手作りのKISS Tシャツを着ていた)のジョアンとドナの間に入り込んだ。ジョアンとドナは、他のロックファンとは異なる風貌のビルを見て、彼を業界関係者だと直感した。メンバーが登場すると、いつも以上に大きな声で彼らの名前を呼び、大騒ぎをした。

ショー終了後、ビル・オーカインはサウンドボードのところにいたエディー・ソランのもとへ近づき、「ショーにノックアウトされたよ。KISSのメンバーと話がしたいんだけど」と言った。エディーはすぐにビルの腕を掴み、バックステージへと連れて行った。ビルは続けた。「君たちのやっていることが気に入ったよ。君たちさえ良ければ、一緒に仕事をしたいと思っている。でも、僕もこの手の仕事は初めてなので、とりあえず1ヶ月の時間をくれないか?もし、1ヶ月以内にレコード契約が取れなかったら、マネージャーからも辞退させて貰う。まずは今度、僕のオフィスでミーティングをしよう。」

ビルとバックステージで話をしていた時、ジーンは部屋の中にファンの女の子がいることに気づいた。そして、ビルと話しながら、その女の子を手招きし、膝の上に抱えて話を続けた。これは、すでに成功を収めているという姿をアピールするための、計算された行動だった。ビルは、ジーンのこの態度を見て、「このバンドの周りで何かが動き始めている」と直感した。

後日、ポールはビルとの最初のミーティングについて振り返り、こう語った。「Hotel Diplomat でのショーの後、ビルが来てジーンと話していたけど、僕は誰が来たのか分からなかったんだ。ジーンに聞くと、Flipsideというテレビ番組を作っている人だって教えてくれた。Flipsideっていうのは、ティーンエイジのダンス番組みたいなものだった。オフィスに行った時、ビルはこう言ったんだ。『もし、君たちが世界一のバンドを目指さないというのなら、僕は一緒に仕事はしたくない』ってね。それをマネージメントの経験もない男が言ったっていうのが良かったのさ。KISSはその辺にいる普通のバンドじゃない。だからこそ、こんな考えを持つ未経験なマネージャーがいいと思ったんだ。」

ビル・オーカインは、14歳という若さで、違法ながらも独自のラジオ局を立ち上げていた。その後、テレビ業界に飛び込み、数々の番組を手掛けた。中でも、後に有名な「サタデー・ナイト・ライブ」の前身となる「サタデー・ナイト・アット・ザ・ムーヴメント」は、ビルが手がけた番組の一つだ。同番組では、音質の悪さを理由にテレビ出演を拒んできたスティーヴィー・ワンダーやジョン・レノン、オノ・ヨーコといったミュージシャンに出演してもらうため、レコードが録音される本物のスタジオで収録を行うなどのアイデアを提案した。

また、Direction Plusという会社のCM部門では、ロック・アーティストのプロモーションビデオ制作に着手し、後のMTVのような音楽番組の先駆けとなった。このDirection Plusで仕事のパートナーとなったのが、ジョイス・ボガート・トラブラスだ。ジョイスは、レコード会社カサブランカの創始者となるニール・ボガートと結婚し、その後再婚したため、現在の姓となっている。

ジョイスとの仕事を通して、ビルはマネージメント会社の設立を決意。2人はスタートしたばかりの会社を ROCK STEADY と名付けた。この名前は、ビルが好きな歌手アレサ・フランクリンの曲名から取られたものである。ビルは、自身のテレビ業界での経験を活かし、ビジュアル面で訴求力のあるバンドは必ず成功すると確信し、KISSをターゲットにした。

こうして、KISSは、その後1982年まで続く強固なマネージメント体制を築いた。ビルは、最初のミーティングでショーン・ディレイニーをジーンとポールに紹介した。ショーンもまた、KISSの初期において欠かせない存在だった。

※写真は左から、ショーン・ディレイニー、エースの妻ジェネット、ビル・オーカイン、ピーターの妻リディア

ショーンは、バンドのイメージ統一化の第一歩として、まずメンバー全員に髪をブルーブラックに染めるよう指示した。ビートルズやテンプテーションズが、髪の長さや色を統一し、同じスーツを着ることでバンドとしてのイメージを固めていたように、KISSにも同様の戦略を取り入れようとしたのだ。

次に取り組んだのはステージアクションだった。”DEUCE” や “LET ME GO, ROCK ‘N ROLL” で披露される、フロント3人が揃ったあのカッコいいアクションは、ショーンのアイデアから生まれたものである。(最初はメンバーも抵抗したらしい。)

ビル・オーカインは、以前ショーンのことをこう評していた。「ショーンはとても演出家として優れた人物だ。何かがおかしいと思ったらすぐに指摘していた。彼は、どうあるべきかを明確にイメージできる創造的な男だった。ロードマネージャーとしてツアーにも同行し、全ての演出を組み立てていったんだ。メンバーが悩んでいても、『よし、やってみよう!』とすぐに提案していった。」

ショーンは、単なる演出の提案やロードマネージャーという役割にとどまらず、KISSに深く関わった。多くの曲で共作者としてクレジットされていることからも、その貢献度の高さが伺える。ミュージシャンとしての経験も持ち合わせていたため、ビル・オーカインやニール・ボガート(Casablanca レコード社長)よりも、メンバーとの間に共通の理解があり、信頼関係を築くのが早かったのだろう。

ROCK STEADY と契約したことにより KISS の周囲が急激に動き始めた。メンバーが「こういう事をしたい」と言えば、ビルは、可能な限り実現に向けて検討した。ピーターのドラムを上に上げるドラム・ライザー、カメラのフラッシュのような光をステージ上で作り出すフラッシュ・ポッド、手品で一瞬の閃光を作り出すフラッシュ・ペーパー、当時のディスコに常備されていたミラーボールなどなどがステージセットに追加されていった。また、コスチュームもデザイナーとタッグを組み、新調された。ジーンは革製のバット・ウィングを付け、「ここにスタッズを付けてくれ。ここにはラインストーン、ここはジッパーだ。」と細かく注文した。(ジーンのデザイン通りにできあがったコスチュームは14kgの重さになってしまった。)

ブーツはニューヨークにある老舗のイタリア製靴会社によって製作された。実はジーンが The Mike Douglas Show に出演した時、衣装担当が左右どちらかのブーツを2つ持ってきてしまうというハプニングがあったが、ジーンは番組にそのまま出演した。

初期のレザー製衣装は、取り扱いに非常に苦労した。ショーが終わり、汗で濡れた衣装は匂いがとてもきつかった…スタッフは、次の街へ移動するたびにレザー衣装をケースから出し、1日中外に干した。とても室内に置いておけるような状態ではなかったのだ。

ある日、ROCK STEADY のオフィスに KISS のメンバーとマジシャンの Presco という人物が呼ばれた。Presco はメンバーの前で火を吹くマジックを披露した。メンバー4人は「いったい全体、何だこれは?!」と戸惑いを隠せなかった。すると、ビルがメンバーに「君たちの内の誰かにこれをやってもらう。やりたくないのは誰だ?」と質問した。その質問にジーン以外の3人が手を挙げた。ジーンは「やりたいのは誰だ?」と質問されたと勘違いして、手を挙げなかったのだ。するとビルl が「OK!シモンズ、君がこれをやるんだ。」と言った。(ビルは最初はポールにやってもらいたいと思っていたらしい…)

※火を吹くパフォーマンスの前は、”FIREHOUSE” の曲が終わる前にポールがバケツ一杯の紙吹雪を(火を消すような仕草で)客席に向かって撒いていた。水が撒かれると勘違いした観客は一瞬驚いたが、紙吹雪だと分かると大喜びをしていた。

また、元々ホラー好きだったジーンはステージで血を吐くパフォーマンスをやりたいと言い出した。「クリストファー・リーの映画で、ドラキュラが牙を見せ、女性の首筋に噛み付いた後、カラー映像で彼の口から真っ赤な血が流れ落ちる瞬間に、多くの観客が恐怖の悲鳴を上げるんだ。それをステージで演ったらカッコイイと考えたのさ。」

※当時は「ブタの血を使っている」などという噂もあったが、最初からジーンは映画/演劇用の血糊を使っていた。ツアーの都度、スタッフがニューヨークの演劇用品店で購入していた。

ビルは、KISS のために小さなリハーサル・ルームを借りて、4台のビデオカメラを設置した(今でこそビデオ録画なんて携帯電話でもできるが、当時は非常に高価なものだった)。KISS はリハーサル風景を録画し、自分たちのアクションを確認して、カッコよく見えるアクションは残し、ダサいアクションは捨てていった。

※ビデオが用意される前は、ショーンからのアクション指導も「そんなのカッコ悪くてイヤだ」と言っていたのだが、ビデオで撮影してみて自分たちでチェックができるようになってからは、ショーンのアイデアも取り入れられるのが早くなった。

※”COLD GIN” の間奏でジーンの片足をエースが両足で挟むように立ち、エースの後ろにポールが立つというアクションも、この時に生まれている。

※ジーンは観客の目の前に向かってくる時はモンスターの動きだったのに、後ろに戻る時はどう見ても人間に戻ってしまっていたのも、ショーンに指摘されて修正した。

誰がフロントマンに相応しいか…ショーンが当時を振り返っている。「4人のメイクを見て各々のキャラクターを考えたんだ。デーモンは吠えたり唸ったりはするが、言葉を話すのはヘンだ。宇宙人は?ネコは?結果として一番人間に近かったポールに叫んで貰ったんだよ “How ya’ doin?!!!” ってね。」

※ポールは以前から頭皮の痒みに悩まされていて、リハーサルでもたまに片手で頭を掻いていた。それを見たショーンは、「やるなら両手でおもいっきり掻け!それから腕を上げてマイクに向かって大声で叫ぶんだ、 “How ya’ doin?!!!”って!」

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