ポールが振り返る「僕はリード・ギターを弾く気はまったくなかった。リード・ギターまで担当するとやることが多くなり過ぎる。曲中ではもっとパフォーマンスをしたいし、リード・ギターに関してはそれまでも熱心には練習していなかったんだ。」
Village Voice 誌に広告が載ったのは1972年12月14日のことだった。
LEAD GUITARIST WANTED with Flash and Ability. Album Out Shortly. No time wasters please.

才能と煌きのあるリードギタリスト求む。直近でレコードを出す予定あり。時間を無駄にしないヤツが希望。
その頃のVillage Voice誌は、 ニューヨークにあるライブハウスやクラブに置いてあるフリー・ペーパーだった。この広告を見た若者が友人のギタリストの家までコピーを持って行った。そう、エース・フレーリーだ!
(その頃のエースはまだ両親と同居していた。)
オーディションにはありとあらゆるタイプの60人近いギタリストが来た。オーディションはまずバンドの3人が1曲演奏し、続いて候補者が加わって同じ曲にリード・ギターを合わせていくという方法が取られた。(中にはポンチョを着込んだフラメンコ・ギタリストがアコースティック・ギターを持って来たなんていうのもあった。なんと彼は妻が同行していて、彼が演奏している間、その妻はずっと恍惚状態だったらしい…)中にはスゴ腕のギタリストもいた。3人は彼が気に入り、数回リハーサルを行ったが、「ステージではメイクをする予定だ。」と言った途端にリハーサルに来なくなったらしい。
エースが振り返る「ブロンクスからオーディション会場まで母親が車で送ってくれたんだ(友人の Bob McAdams が送ったという説もある)。家族用の大きなキャデラックの後ろに50ワットの Marshall アンプを積んで行った。時間に遅れそうだったから慌てててオレンジと赤のコンバースを履いちゃったのさ。会場の下についた時、気を落ち着かせるために500mlのビールを2缶開けたんだ。そして、オレがロフトに入るとそこに Bob Kulick (Bruce Kulick の兄)がいたんだ。」

ボブはバンドの3人の演奏を聞き、自分と同じように Led Zeppelin の影響を受けていると思い喜んだ。ボブが入っての演奏はとてもいいフィーリングだった。ジーンが語る「ボブこそ俺たちが求めていたものだと思った。それまでオーディションしたヤツらの中ではダントツだったんだ。」オーディション中にジーンは1枚のポラロイドをボブに見せている。「こういうメイクをしてステージに立つんだが、どう思う?」ボブは「バンドが成功を得るのに音楽と同じくらいスタイルが大事だとは思わないよ。」するとジーンは「これは最高にカッコいい仕掛けになるんだ。」と言った。ボブはこれまでもグラム系のミュージシャンと共に仕事をしたことがあったが、自分は音楽だけで勝負したいと常々考えていた。なので、ジーンからの問いかけに両手を上げて賛成するとは言えなかったのだ。
ボブの次がエースの番だった。エースは躓きよろめきながらロフトに入っていった。エースは見た目も少し他の連中とは違っていた(まさにスニーカーの色もだ!)。会場ではまだボブがいて話をしていたため、エースは部屋の角で持参したリバース・シェイプでシングル・ピックアップの Firebird をギグ・バッグから出しウォームアップを始めた。持参した Marshall に繋いで音を出して練習し始めたのだ(エースはアンプには繋いでいないと言っているが、実際はどうだったのか…?)。ギターの音だけではなく、手伝いで付き添ってくれた友人と大声で話し、例の声で大笑いまでし始めた。痺れを切らしたジーンはエースの前に行き、おとなしく待て!というしかなかった。この時点でジーンはエースのことが気に入らなかった。
いよいよエースの番が来た。バンドからは、先に自分たちが演奏をするのでソロの時に演奏に加わるように言われた。曲のキーは“A”、いや俺たちはフラット・チューニングをしているから“フラットA”だ、とも言われた。バンドが始めた曲は “DEUCE” だった。エースはアンプのボリュームを最大まで上げて、そこに加わった!続いて “FIREHOUSE” も演奏した。
ジーンが振り返る「エースが演奏に加わった途端、ポールと顔を見合わせた。」
ポール「エースがこのバンドが完成するために必要なピースだったというのがすぐにわかった。まさに自分たちが探していたものだったんだよ。」
その後も数曲セッションを続けた後で、ジーンからはもっと演奏をしてみたいからまた連絡をすると告げられエースは会場を後にした。ポールとジーンはまだ少しエースに対して懐疑的ではあったが、ピーターは「あいつは、このバンドに迎えるのに完璧なヤツだよ!」と喜んでいた。
エースはバンドがとても気に入った。家に帰るや両親に「やっとスゴいバンドに出会ったんだ!このバンドで決まりだ!」待ち望んでいたチャンスに巡りあったと思えた。
オーディションから2週間後、バンドからエースに連絡が入る。エースは再び楽器を持ってロフトを訪れる。セッションが終わった後、「君に決まりだ!」と言われたのだ。エースはメイクをして演出にも凝ったライブに臨むのが楽しみでしょうがなくなっていた。しかし、実はレコード契約はまだなかったという事実を、この時初めてエースは知るのだった。エースは多少不満は持ったもののその年のクリスマスにはバンドと共にロフトにいた。
4人になったバンドはロフトで週6日の練習を始める。ポールは演奏をする内に地面が揺れるのを感じた。「この4人なら世界を相手にできる!」
ある日、ポールの学校の後輩だった Binky Phiilips (The Planet というバンドのメンバーだった)が、バンドメイトと2人で彼らが練習するロフトを訪れた。ポールが彼らを誘ったのだ。Binky がロフトに着くとそこには3人しかいなかった。ポールは「リード・ギタリストが遅れてるんだ。」と説明した。しばらくは話をしていたが、とりあえず3人で演奏を聴かせることにした。演奏したのは、”DEUCE”、”STRUTTER”、”FIREHOUSE” だった。Binky はその曲作りのうまさを絶賛した、ジェラシーさえ感じるほどだったのだ。「ところで、俺達はどれだけ待たされるんだ?」と思った時に、エレベーターが開く音とドタドタという他の人とは違う足音が近づいてきた。エースだ!
エースが部屋に入って来た時にポールが「1時間遅いぞ!」と言ったが、エースは「つまらない用事にひっかかった。」というだけで言い訳も謝りもしなかった。エースはレスポール・ジュニア(当時、Gibsonのギターとしては最も値段の安いギター)を取り出し、4人での演奏が始まった。エースのパワフルでアタックの強い音はバンドに完璧にマッチしていたと Binky は振り返っている。3人での演奏と比較して明らかにギア・アップしていたのだ。
ジーンが望んでいた新しいバンドのイメージは、メンバー1人だけを見ても、そのバンドのメンバーであることがわかるような「バンドとしてのイメージ」があること、それでも、メンバー全員が揃った時には各々のメンバーが個性的に見えるようにしたいというものだった。そう、The Beatles がそうであったようにだ。「Alice Cooper や David Bowie や Genesis がメイクをやめてしまったのなら、俺たちがメイクをしよう!自分自身のファンタジーの世界に浸って、別の自分を装うんだ、中身はあくまでも自分自身であるにもかかわらずだ。」
この頃、エースは自分の KISS での名前をエース・フレーリーでいくことに決めている。バンドに2人のポールではしっくり来ない。(エースの本名は Paul Frehley だ。)エースというのは学生時代から仲間に呼ばれていた名前だったので、何も悩むことなく決まった。
当時バンドのマネジメントを担当していた友人は、ロフトを訪れる都度、彼らの見た目が変わっていくのに気づいていた。最初はアイライナーだった、次にルージュ、眉も描き始めた、でも、ある日全部なくなっていた。その後も音量が日に日に大きくなって行くのに比例するようにメイクアップも増えていった。」

ジーン「最初の頃はキラキラした衣装を選んでいた。どちらかと言えば女装のようだった。ポールはまだ見れたが、俺はフットボーラーがバレエの衣装を着ているようだった。だが、メイクのコンセプトが固まってきた後は早かった。俺とポールは大きな鏡を買ってきて、壁に立てかけた。ただ、安物だったからまっすぐ立ってはくれなかったけどね。それが、 Coventry でのライブの一週間前だった。」
初めてのライブに向けた衣装は S&M ゲイ・ショップの Eagle’s Nest で選んだものだった。黒革にスタッズが付いた衣装だった。それから同じように黒革にスタッズが付いたベルトとカラー(首に巻いている革)はペットショップで買ったものだ。ポールは別の S&M ショップでも黒革の6インチ(約16cm)のハイヒール・ブーツとタイトなパンツと黒いTシャツを買った。ポール1人の衣装で$53だった。