【KISSTORY】Peter Criss

KISSTORY

ピーター・クリスは、1945年12月20日、ニューヨーク州ブルックリンで母 Loretta と父 Joseph Criscuola の間に生まれた。本名は George Peter John Criscuola だが、現在は苗字をクリスに改名している。5人兄弟の長男で、1人の弟と3人の妹がいる。ピーターが幼い頃、家族はブルックリンのウィリアムズバーグ地区に住んでいた。

両親はジャズミュージックを愛し、多数のレコードを所有していた。父ジョーは特にスウィング時代の最も偉大なドラマーと言われていたジーン・クルーパのファンで、ピーターも次第に彼の音楽に強い興味を抱くようになった。9歳頃から、レコードに合わせてキッチンで食器やフライパンを叩き始めた。

13歳になったピーターは、早くも The Stars というドゥ・ワップのバンドで活動を始める。とはいえ、ドラムを叩くというより、他のメンバーが歌う間リズムをキープする程度だったようだ。彼の興味に理解を示した父は、骨董品店で軍隊のマーチング・バンド用スネアドラムを買ってあげた。さらに、父は木製のドラムケースを作り、サイドには輝く星型のステンシルを貼った。念願の本物のドラムを手に入れたピーターは、本格的な練習を始めた。

周囲の予想に反し、ピーターはアート系の学校に入学して絵を描き始めた。成績はあまり良くなかったようだが、ピーター自身は絵を描くことで気分が落ち着くと感じていた。学校の行事でマーチング・バンドのドラム担当になるも、単純なマーチングのリズムを嫌い、独自のスタイルを持ち込もうとして追い出されてしまった。

15歳で本格的なドラムセットが欲しくなり、肉屋の配達バイトを始める。スリンガーランドの「ラジオ・キング」というセットを購入したくて頑張ったが、稼いだ200ドルではフロアタムを除いたセットしか買えなかった。そのため、さらに1年バイトを続け、やっと念願のフルセットを手に入れた。

16歳になり、人前で演奏するようになる。バーでの演奏は1晩25ドルの稼ぎになった。18歳でデュー・ドロップ・インというホテルと週4回75ドル(食事付き)の契約を結び、プロとして活動を始めた。1963年のことで、当時はまだロックよりもロカビリーやR&Bの方が流行っていたが、ビートルズが渡米して人気が出始めた時期でもあった。

ピーターは子供の頃からジーン・クルーパのようなジャズ系のドラミングを聴いており、即興的なドラミングセンスも持っていた。同時に、ビートルズに代表されるようなロック系のドラミングにも非常に興味を持ち、テクニックを習得していった。メトロポールというバーでは、ジャズ系バンドの前座にロック系バンドを組み込んでいた。ピーターが友人と通りかかった時、ロック系バンドとして Joey Greco and the In Crowd が演奏予定だったので、一杯飲んでいくことにした。しかし、バンドにドラマーがおらず、ピーターを知っていたジョーイが参加を求めた。満員の客席に緊張したピーターだったが、思い切って演奏することにした。最初は緊張気味だったが、徐々にその才能を発揮し、素晴らしいドラミングを披露した。演奏後、バンドへの参加を要請され、ピーターは喜んで引き受けた。さらに、彼らの後に演奏するジャズバンドでドラムを叩いていたのが、ピーターの憧れであるジーン・クルーパ本人だったことも、引き受けた理由の一つだった。

クルーパと同じステージに立てることになったピーターは、彼のドラミングを見て学ぶだけでなく、直接テクニックを教わり始めた。クルーパもピーターの熱心な姿勢に関心を示し、多くのテクニックを教えた。ピーターは5年間 Joey Greco and the In Crowd に在籍し、成功を収めていった。その後も、ラテン系バンド Barracudas でパーカッションを担当したり、ソウル系バンド The Brotherhood で数年活動した。

1968年、ピーターはKISS以前で最も成功したバンドである「Chelsea」というカントリー色を加えたフォークロックバンドに在籍していた。当時はボブ・ディランの台頭などもあり、フォークロック系の音楽が人気を博していた。Chelsea のメンバーは、ピーター以外にChris Aridas(ギター)、Michael Benvenga(ベース)、Mike Brand(ギター)、Peter Shepley(ボーカル)という構成だった。Chelsea は地元ニューヨークの大きなクラブでも演奏するようになり、1969年にはデッカ・レコードと2枚のアルバム契約を結ぶまでになった。この頃からピーターは「Peter Criss」というステージ名を使い始めた(アルバムのクレジットには印刷ミスで「Cris」となっているが)。アルバムのプロデューサーは Lewis Merenstein だが、共同プロデューサーの Ron Johnsen は1971年にジーンとポールのバンド Wicked Lester のプロデュースも手がけている。

デッカ・レコードの親会社 MCA は Chelsea を気に入り、フリーのプロモーション用アルバムに Chelsea の “Hard Rock Music” という曲を取り上げた。これがバンド内に亀裂を生み、ギタリストの Aridas の脱退につながった。Aridas の後任メンバーのオーディションが行われたが、ピーターは遅刻してしまう。他のメンバーは彼を待たずにオーディションを済ませ、新メンバーを決定してしまった。このことに腹を立てたピーターは「辞めるから」と一言残してオーディション会場を後にした。

しかし、その時に新メンバーとなったギタリストこそ、その後のピーターのキャリアで重要な役割を果たす Stan Penridge だった。Stan は大ヒット曲 “Beth” の共作者であり、ピーターのソロアルバムにも多くの曲を提供している。取り残された形のメンバーたちは慌ててピーターを家まで追いかけ、バンドに残るよう頼んだ。話を聞くうちにピーターも機嫌を直し、Chelsea の活動を続けることを約束した。しかし、実際に Stan の最初のライブを行うと、ピーターと他のメンバーとの関係がしっくりこなくなっていた。

Chelsea の1stアルバムはセールス的に成功したとは言えなかった。2ndアルバムの制作にあたり、バンド内は分裂する。一方は Crosby, Stills, Nash & Young のようなフォーク寄りの音楽を目指し、もう一方はよりロック色の強い音楽を求めた。結果的に、マテリアルの半分はハードなロック、残り半分はフォーク色の強い曲となった。ライブでも同様で、セットを半分ずつに分けて演奏する中途半端なセットリストとなってしまった。当然、観客の反応も二分され、最終的にフォーク色を求めた Shepley と Brand がバンドを離れることとなった。残る3人はバンド名を「Lips」と変え、活動を始めた。

Lips は積極的にライブ活動を行い、数曲のデモをレコーディングしたが、結果的にはどこのレコード会社とも契約できなかった。このデモには、その後のピーターのソロアルバムに収録された ”Don’t You Let Me Down” , ”I’m Gonna Love You”, ”Hooked On Rock & Roll” なども含まれていた。(デモで ”Don’t You Let Me Down” を歌っているのはベーシストの Michael Benvenga )

この頃、ベースの Michael Benvenga は結婚を機にロックンロールライフから離れ、バンドを去っていった。ピーターは彼の脱退時に、いつか自分がソロアルバムを作る時があったら、Benvenga にも演奏してもらおうと決めていたそうだが、惜しくも脱退の数年後に Benvenga は病気で亡くなってしまった。

結局、Lips は Stan とピーターのデュオとして活動することになったが、1972年初頭、ピーターは現状を超えて飛躍すべきだと感じ始め、Lips の活動を停止させた。

ピーターは現状を変えるため、1967年にブルックリンで出会ったリディア・ディ・レオナルドと結婚する。2人は新婚旅行でイギリスのロンドンへ向かったが、ちょうどその頃 Elton John がバンドのドラマーを探しているという話を聞いた。ピーターは自分こそその役にふさわしいと思い応募しようとしたが、すでに他のドラマーが決まった後だった。ピーターは自分の将来に不安を抱えつつニューヨークに戻った。

しかし、答えは意外と簡単に見つかった。ある日、「ローリング・ストーン」誌を読んでいるときに、ふと個人広告欄が目についた。ほとんどがTシャツの広告や、宗教関連、政治団体関連、薬品類の広告だったが、いくつかミュージシャンのバンドメンバー募集広告もあった。しかも、掲載は無料だった。ピーターはさっそく「ドラマー。経験11年。成功のためなら何でもやる。」という広告を出した。

ピーターの広告に対する最初の反応の電話があった時、ピーターはリディアとパーティーを開いている最中でワインを飲んでかなり酔っ払っていたそうだ。その電話の相手こそ、ジーン・シモンズだった。

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