1970年、18歳の Stanley Eisen(ポールの本名)と21歳の Gene Klein(ジーンの本名)に運命が訪れる。舞台はマンハッタンにあるスティーブン・コロネル(Stephen Coronel)のアパートだ。スティーブンはギタリストで、ジーンの学生時代からの友人だった。二人はいくつかのバンド(The Long Island Sounds、Love Bag、Cathedral など)を組んでいた。当時、ジーンとスティーブンはギターも弾けるシンガーを探していた。以前、スティーブンとポールは Tree というバンドを組んだことがあった。ジーンは Tree のライブを観たことがあるという。「ハーレム近くの地下クラブで Tree を観たんだ。そのリズムギタリストに目を奪われたよ。彼らは “Whole Lotta Love” や “All Right Now” を演奏していたが、彼の歌は非常に説得力があった。ステージ右で歌う彼は見た目も良く、ハイトーンの歌声は Led Zeppelin のロバート・プラントのようだった。彼の名は Stanley Eisen だと言っていたな。」スティーブンはすぐにポールに電話し、ジーンとの面会を提案した。1970年8月のことだった。
当時のジーンはかなり太っていたという。(最も太っていた頃の Ozzy Osbourne のようだったらしい。ジーンによると225ポンド=102kgもあったそうだ)真夏だというのに、ロング・コートを着たままだったという。
スティーブンとジーンが待つ部屋にポールが到着すると、ジーンは窓際に立っていた。スティーブンがジーンに「彼が Stanley Eisen だ。彼も作曲するんだ」とポールを紹介した。ジーンはそれまで自分以外に作曲する人間に会ったことがなかったという。二人は握手を交わし、互いのバンドの演奏を観た感想などを語り始めた。ジーンは少々横柄な口調で「作った曲を聴かせてくれよ」と言った。ポールはスティーブンが用意したギブソンのES-330を手に取り、数曲を歌い始めた。その中には “SUNDAY DRIVER”(後に KISS の1stアルバムに “LET ME KNOW” として収録される曲)も含まれていた。ジーンもスティーブンも “SUNDAY DRIVER” を気に入ったようだ。ジーンは後にこう語っている。「”SUNDAY DRIVER” はいい曲だった。メロディと構成が素晴らしく、歌い方もイギリス風で The Beatles の曲のようだった。何よりポールの声が良かったんだ。」続いてジーンがギターを手に取り、”STANLEY THE PARROT” という曲を歌った。ジーンの声はポール・マッカートニーに似ていたとポールは振り返るが、曲自体にはあまり興味が持てなかったという。ポールは当時を思い出してこう語る。「実は、ジーンの人柄もあまり気に入らなかったんだ。」ジーンはこう説明する。「ポールは俺のことを気に入らなかったらしい。横柄な態度で”いったい何様だ”と思ったんだろう。俺は全くフレンドリーじゃなかった。まるで子供みたいなもんさ。言い訳するわけじゃないが、俺は外国から来た。兄弟も姉妹もいなかった。母は第二次大戦中のドイツにいたんだ。父も早くに去った。俺たち母子には何のサポートもなく、母は朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。自分なりのやり方しかできなかったんだ。」
ポールはスティーブンの部屋を後にする際、車で送ってくれた友人にジーンの態度への不満を漏らしていた。一度はジーンとバンドを組むことに興味を失ったポールだが、冷静に考え直した。「一度会っただけで人の本質は分からない。何かを始めてみないうちに人との関係を切るべきじゃない。」

数日後、ポールとジーンは再びスティーブンとキーボーディストのブルック・オストランダー(Brooke Ostrander)と共にセッションを行うことになった。このセッションが二人の関係を一気に近づけることとなる。彼らは交代でメインパートを歌い、もう一方がハーモニーを担当するなど、とても楽しそうに演奏していた。スティーブンは、二人がお互いの才能を補完し合っていたと振り返っている。
ジーンはこう語る。「ポールと俺は音楽の楽しさや理想、作曲に対する価値観などを共有した。日に日に進歩していったんだ。俺たちは1枚のコインの表と裏のようなものだった。ポールは俺にとって大切なパズルのピースだと思った。ポールはきっと成功すると確信した。俺はポールとの関係を続けようと思ったんだ。」
ポールはこう語る。「二人にとって成功することは他の何よりも大切だった。成功に向かってジーンは輝いていたし、野心的でハードワークを厭わなかったよ。二人でいることは単なる1+1ではなかった。何倍もの力を感じたし、とても意味深いものだった。チームでゴールを目指すことは、一人でやるよりも何倍も大きな違いを生むんだ。」
ジーン、ポール、スティーブン、ブルックの4人と、ブルックが連れてきたドラマーのジョー・ダビッドソン(Joe Davidson)は Rainbow というバンドを結成し、作曲を始めた。しかし、ジョー・ダビッドソンは早々にバンドを去ることとなり、後任ドラマーとしてトニー・ザレッラ(Tony Zarrella)が加入した。
Rainbowというバンド名の由来について、後にジーンはこう語っている。「そのバンドではあらゆるタイプの曲を演奏してたんだ。バラード、ヘビー・ソング、ロックンロールにカントリーとね。たくさんのカラーを持っていたということだ。」
※ジーンとポールは、上記の8月の出会いの前にも数回会っていた。ジーンとブルックが組んでいたバンドでギタリスト募集の広告を出した際、18歳だったポールも応募したが、オーディションで落選している。また、ジーンは他のバンドにアンプなどの機材をよくレンタルしていた。ポールが在籍していた Uncle Joe もジーンから機材をレンタルしたことがある。その時、ジーンはポールがステージで演奏する姿を目にしていたようだ。