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Tommy Thayer

tommy6本名:Tommy Thayer
誕生日:1960年11月07日
生誕場所:オレゴン州ポートランド

トミー・セイヤーは、1960年11月7日生まれ、オレゴン州ポートランドに育った。生家は家具商を営み、音楽好きな一家だったようだ。家にあるさまざまな楽器に加えて、トミーがギターを弾き始めたのは13歳 の時だった。「夢中になったよ。ギターには自分を惹きつけるものがあったし、しっくりきた。」 練習場所には家業の倉庫を使うことができた。

トミーが高校生の時、学校のマーチング・バンドでサックスを吹いているところに、ライバル高のドラマー、ジェイミー St. ジェイムズが声をかけてきた。トミーが長髪だったからだ。トミーは早速、ジェイミーに“バイソン(牛の一種)” というあだ名をつけられ、2人は KISS や Aerosmith のようなハード・ロックを楽しむ親友となった。そしてジェイミーはトミーに、自分のバンドである Hell (後、バンド名をMovie(Boogie?) Starに変更)のオーディションを受けさせた。これがトミーにとって最初のロック・バンドとなる。

1981年11月、2人は、ジェイミーをヴォーカルとするヘヴィなバンドを結成すべく、友人知人からメンバーを集めた。バンド名の候補リストからトミーが選んだ名前は、Black ‘N Blue 。カヴァー曲ではなくオリジナルを演奏するこのバンドは、地元オレゴンではあまり受入れられず、L.A.に行ってライブをすることが多くなった。ここで、Ratt のメンバーに機材を貸してもらったり、Motley Crue のメンバーとも親しくなった。トミーは当時を思い出して「彼らはとても協力的で、そこには友情の輪があった。」と語っている。

1982年、デモテープを作ってL.A.の音楽関係者に売り込み始めたところ、ヘヴィ・メタルの新人発掘で有名なブライアン・スラゲルから色よい返事が来た。デモの中の “Chains Around Heaven” は、 彼のコンピレーション・アルバム、“Metal Massacre”(メタル・ブレード・レコード) に Metalica、Armored Saint らと共に採用され、事実上のレコード・デビューを果たすことができた。

1983年1月、トミーはジェイミーに説得されてオレゴンを離れる決意をし、バンドは拠点をL.A.に移した。5部屋もある大きな家を借り、パーティ三昧の生活を始めるとともに、L.A.での人気は急上昇し始める。その後、半年も経たないうちにゲフィン・レコードのジョン・カロドナーの目に止まり、Black ‘N Blue はゲフィン・レコードと好条件の契約を締結した。

1984年8月、ゲフィンから “Black ‘N Blue” がリリースされた。Scorpions のプロデュースで有名な ディーター・ダークスを迎え、ドイツまで行きレコーディングしたこのアルバムだが、意外に売上は伸びなかった。(しかし、結果的には、Black ‘N Blue が出した4枚の中で最も売れたのはこのアルバムだった。) その後、Aerosmith のバック・イン・ザ・サドル・ツアーに参加。ビッグ・バンドとの前座、14,000人という初めての大観衆を前にすることができて、夢がかなったように思ったという。11月には来日も果たしている。

1985年、第2弾の “Without Love” がリリースされた。ブルース・フェアバーンをプロデューサーに、 ヒットメーカーのジム・ヴァランスも投入し、ポップな路線を狙ったが、これも不発に終わった 。(Bon Jovi は “Without Love” に感動して、フェアバーンにプロデュースを依頼。そして完成した “Slippery When Wet” は大ヒットとなった。また、フェアバーンは、KISS の “Psycho Circus” もプロデュースしているが、その翌年不運にもこの世を去った。) 年末からは、遂に KISS のアサイラム・ツアーの前座を務める。初めてジーンに会ったときの印象について、トミーは、「最初は、想像していたより怖い感じだったけれど、それは彼のオーラだったんだ。すごく興奮したよ。」と語っている。

前座期間が終わり、Black ‘N Blue が曲作りを再開しようとしていた所、KISS がラスベガスのショウでWASP をクビにしたため、その代わりとして急遽呼び戻された。ショウの後、トミー達は、ジーンに次の アルバムのプロデュースを頼みに行き、曲を聴いたジーンはこれを快諾した。こうして1986年8月に、 ジーンのダークな影響が色濃く出た “Nasty Nasty” がリリースされた。表題曲 “Nasty Nasty” は、 ジーンとの共作で、“Only You” (“Music From The Elder” 収録)の中の一節が使われた。(クレジットはされていないが、これは、“Domino”(“Revenge” 収録)の元曲でもある。)ピーターも “Best In The West” のバック・ヴォーカルで参加している。

この頃、Ted Nugent、 Guns`N Roses とも競演、アルバム発売後には、Queensryche、Keel、Saxon、Yngwie Malmsteen とのツアーを開始した。以前のような一流どころと一緒ではなかったが、トミーは 最も楽しかったツアーだと回想している。

1987年、再度ジーンを迎えての第4作目、“In Heat” が作られた。しかし、ついにゲフィン・レコードは Black ‘N Blue から手を引くことを内定し、プロモ・ビデオもなく、宣伝活動もままならない状態でのツアーはひどいものになった。バンド内の雰囲気も悪化し、トミーとサイド・ギターのジェフ・ワーナーは特に激しく衝突した。ジーンは、Black ‘N Blue の可能性を信じてマネジメントを引き受け、次のアルバム製作をも申し出てくれたが、トミーは脱退を決意しており、1989年、Black ‘N Blue は解散となった。「当然のことだよ。 僕達は成功を望んでいたのに、思ったようにはいかなかった。」トミーは、バンドの方向性を次々に変えすぎたことが、失敗の原因だと考えている。「最初に始めたことを、次から次へと別のスタイルに変えるんだから。何か一貫したところがなければ、ファンの関心はなくなるよ。」、「ヒット曲なしで、メジャー・レーベルから5年間に4枚のレコードを出してもらえたんだからラッキーだったのさ。カロドナーがずっと後押ししてくれたけれど Black ‘N Blue は当たらなかった。もうこれは終わりにして新しいスタートを切る時だ。」

1989年、トミーは、Harlow のアルバム “Harlow” の中でギターを担当して以来、Lover Boy、Jimmy Burnes、Ted Nugent などにギターやバック・ヴォーカルとして参加する一方で、バンド American Man に一時期在籍をしている。 また、ジーンが Doro Pesch をプロデュースした時には、ジーンの助手として、そしてギタリストとして参加し、裏方での曲作りとプロデュースという道へ方向転換をしていった。American Man の後は、Warrant のエリック・ターナーとプロダクション会社を設立し、そこそこの成功を収めている。

1601430_10201221639933555_1428630837_n一方、友人との余興で KISS のトリビュート・バンド、Cold Gin の Ace 役としてギターを弾き始めた。 当初は、KISS のTシャツとジーパンだけだったのが、メイク姿でライブを行ってからはL.A.での人気は徐々に高まっていった。1991年のハロウイーン・パーティでの成功の後、トミーがコスチュームの新調とステージ の本格化を提案し、Cold Gin はアライブ時代の完全コピー・バンドとして大評判となった。トミーは噂を聞きつけたジーンとポールをコンサートへ招待し、2人は、自慢の息子を見るような暖かい態度でこのバンドに接してくれたという。また、トミーは、バンドのマネジメント一切に手腕を発揮し、本家KISS の承認を受けた Cold Gin は、L.A.だけでなくアメリカ南西部や日本にまでツアーを行った。

1994年、トミーは、Shake The Faith (後、No.9 とバンド名変更)に参加したが、バンドのヴォーカルとの確執から、次第に KISS との仕事に時間を多く割くようになっていった。トミーは、ジーンと1989年 に “Betrayed”、 “The Street Giveth and the Street Taketh Away” (“Hot In The Shade” 収録)を共作し(1996年には “Childhood’s End” を共作)、その他にもデモ作りなど、“KISSの腹心” としてありと あらゆることを KISS に頼まれるようになっていた。(元 Black ‘N Blue のジェイミーも、ジーンの依頼 で “In My Head” (“Carnival Of Souls” 収録) の歌詞を提供している。)

KISSTORY の製作以降は、フルタイムで KISS の仕事をするようになり、1995年の KISS コンベンション・ツアーに参加し、マネキン人形に KISS メイクを施したりと、KISS リユニオンへの下地を作っていった。

1996年から始まった、リユニオン・ツアー、その後のサイコ・サーカス・ツアーでは、トミーはツアー・ マネージャーとなり、昔のギターソロを忘れていたエースに弾き方を指導したこともあったらしい。 トミーは、ツアーについて「これは仕事」とする一方、「素晴らしい経験だった」と語っている。KISS の5枚組CDボックス・セット、ビデオ(DVD)“The Second Coming”、映画 “Detroit Rock City” の一場面、テレビ番組の “KISS Beyond The Make-Up”、“The Last Kiss” 製作などにも関与した。

KISS から離れては、兄弟のジョン・セイヤーと地元オレゴンに、EON Record というレコード会社を設立し、新人の発掘なども行っている。この会社のアルバムにはジョン・セイヤーがギターを弾き、エリック・ シンガーがドラムで参加したものもある。 1997年のハロウィンには、元 Black ‘N Blue のメンバーと共に、一日限りのリユニオンコンサートを地元ファンの前で行い、“One Night Only Live” としてCDも発売した。「人の和と本物の友情だ。」けれども、 トミーは、「ステージを懐かしく思うことはない、僕はむしろ実務派で、裏方の仕事に徹するほうが自分にあっていると思う。」と語った。「僕は、昔からバンドの組織や方向性づくりをする人間だったんだ。」

ミュージシャンから“ビジネスマン”へと、キャリアを転向したかに見えたトミーだが、2002年3月、ジャマイカにおける KISS のプライベート・イベント出演から状況が変わってきた。エースがこのイベントへの出演を拒み、 トミーが “Spaceman” として出演することになったのである。これまでにもエースの代わりに度々リハーサルを務めていたこともあったし、エースの遅刻に備えコンサート会場でフルメイク、フルコスチュームでスタンバイしていたこともあったが、実際に KISS の “Spaceman” として舞台に立ったのはこの時が最初となった。また翌月には全米でTV放送された「ディック・クラークのアメリカン・バンド・スタンド 50周年記念番組」でも、エースは収録会場に現れず、代役としてトミーが出演しなければならなくなった。

2003年2月からは、メルボルンの KISS・シンフォニー、日本公演、ラスベガスでのクラブ・コンサートでは、 トミーは連続してアライブ時代の “Spaceman” としてステージに立っている。

子供の頃は KISS、Alice Cooper、Deep Purpleのファン。現在は、Smashing Pumpkins、 Beck、Prodigy、Foo Fightersを聴く。

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