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Peter Criss

peter01本名:George Peter John Criscuola
誕生日:1945年12月20日
生誕場所:ニューヨーク州ブルックリン
身長:1m75cm
結婚:今までに3人の女性と結婚している。最初はリディア “Beth” 、2番目はデブラ・ジャンセン、3番目はジジと1998年に結婚している。デブラとの間に娘ジェニリーが産まれている。ジェニリーはビデオ“セカンド・カミング”にも登場している。

ピーターは、1945年12月10日にニューヨーク州ブルックリンで、母ロレッタ、父ジョー・クリスコーラの間に生まれている。正式な名前はジョージ・ピーター・ジョン・クリスコーラだが、現在は苗字を改名してクリスとしている。5人兄弟の長男で、1人の弟と3人の妹がいる。当時、家族はブロックリンのウィリアムズバーグ地区に住んでいた。

彼の両親は、JAZZミュージックを愛し、レコードも数多く所有していた。父ジョーは、特にスィング時代の最も偉大なドラマーと言われていたジーン・クルーパのファンであり、ピーターも次第に彼の音楽に強い興味を抱くようになる。9歳の頃からレコードに合わせてキッチンで食器やフライパンなどを叩くようになる。

13歳になったピーターは早くも The Stars という名のドゥ・ワップのバンドで活動を始める。とはいえ、ドラムを叩くというよりも単に他のメンバーが歌っている間、リズムをキープさせるくらいのものであったらしいが…。彼の興味に対して父は理解を示し、骨董品の店で軍隊のマーチング・バンド用のスネア・ドラムをピーターに買ってあげている。また、父は木でドラムのケースを作ってやり、ケース・サイドには輝く星型のステンシルが入っていた。ついに本物のドラムを手に入れたピーターは本格的な練習を始めるのであった。

ピーターは周りの予想を余所にアート系の学校へ入学し、絵を描きはじめる。ピーターの成績はあまり良いとは言えなかったらしいが、ピーター自身は、絵を描くことにより気分が落ち着くので、そのために描いているんだという意識が強かったそうだ。学校の行事にも参加してマーチング・バンドのドラム担当をするが、単純にマーチングのリズムを叩くことを嫌い、自身のスタイルを持ちこもうとしたために、追い出されてしまった。

15歳になって本格的なドラム・セットが欲しくなり、肉屋の配達のバイトを始める。スリンガーランドのラジオ・キングというセットが購入したくてバイトを頑張るが稼いだ$200で買えたのは、フロア・タムを除いたセットであった。そのために、更にもう1年バイトを続けやっと念願のフル・セットを手に入れる。

16歳になり、人前で演奏をするようになる。バーでの演奏は1晩$25の稼ぎになった。18歳になり、デュー・ドロップ・インというホテルと週に4回$75(サンドウィッチ、ピザなども食べさせて貰えた)という契約を交わし、プロとして活動を始める。1963年の話であり、当時はまだロックよりもロカビリーやR&Bの方が流行っていた時代であったが、ビートルズが渡米して人気が出始めた時期でもある。

ピーターは、子供の頃からジーン・クルーパのようなジャズ系のドラミングを聞いており、インプロビゼーション的なドラミング・センスも持っていた。また、同時にビートルズに代表されるようなロック系のドラミングに関しても非常に興味を持ち、テクニックを習得していく。メトロポールという名のバーでは、ジャズ系のバンドの前座にロック系のバンドを組みこんでいた。ピーターが友人と前を通りかかった時に、ロック系バンドとして Joey Greco and the In Crowd というバンドが演奏の予定だったので、ピーターは一杯飲んで行くことにした。入ってみるとバンドにはドラマーがおらず、ピーターのことを知っていた Joey が参加を求めた。客席は満員であり、それほどの大勢の前で演奏したことのないピーターは躊躇するが、思いきってやってみることにした。最初は緊張気味に演奏していたピーターだが、徐々にその才能を発揮し、素晴らしいドラミングを披露する。演奏が終わり、そのバンドへの参加を要請されたピーターは、喜んでそれを引受けた。そして、もちろん、彼らの後に演奏する JAZZ バンドでドラムを叩いていたのは、ピーターの憧れであるジーン・クルーパその人であったのも引受けた理由の一つであった。

クルーパと同じステージに立てることとなったピーターは、彼のドラミングを見て勉強をするのみならず、クルーパにあれやこれやとテクニックを聞きはじめる。クルーパもそんなピーターの姿勢に関心し、ピーターに対して数々のテクニックを教えていった。ピーターは、5年間 Joey Greco and the In Crowd に在籍し成功を収めていく。その後も、ラテン系のバンド Barracudas でパーカッションを担当したり、The Brotherhood というソウル系のバンドで数年活動していく。

1968年、ピーターは KISS 以前で最も成功したバンドであるChelsea というカントリー色を加えたフォーク・ロックのバンドに在籍していた。当時はボブ・ディランの台頭などもあり、フォーク・ロック系の音楽が人気を博していた。チェルシーにはピーター以外に Chris Aridas(ギター)、Michael Benvenga(ベース)、Mike Brand(ギター)、Peter Shepley(ボーカル)というメンバー構成だった。Chelsea は地元ニューヨークでも大きなクラブで演奏を行うようになり、1969年にはデッカ・レコードと2枚のアルバム契約を結ぶまでになった。その頃からピーターは、Peter Criss というステージ名を使うようになる。(アルバムのクレジットには印刷ミスで Cris という名になってしまっているが…)アルバムのプロデューサーは、Lewis Merenstein だが、共同プロデューサーの Ron Johansen は、1971年にジーンとポールのバンド Wicked Lester のプロデュースを行っている。

デッカ・レコードの親会社であるMCAは、Chelsea を気に入り、フリーのプロモーション用アルバムにChelsea の “Hard Rock” という曲を取り上げるなどしている。そのことがバンド内に亀裂を生むことになり、ギタリストの Aridas 脱退へとつながる。Aridas の後任メンバーのオーディションが行われるが、ピーターは遅刻してしまう。ピーターが来ないにもかかわらず、他のメンバーは、オーディションを済ませ新メンバーを決定してしまった。そのことに腹をたてたピーターは、「辞めるから」と一言残してオーディション会場を後にしてしまった。

しかし、その時に新メンバーとなったギタリストこそ、その後のピーターのキャリアで重要な役目を果たす Stan Penridge であった。Stan は、大ヒット曲である “Beth” の共作者であり、ピーターの2枚のソロ・アルバムにも多くの曲を提供している。

取り残された形のメンバーたちは慌ててピーターを家まで追いかけ、ピーターにバンドに残ってくれるように頼んだ。話を聞くうちにピーターも機嫌を直し、Chelsea の活動を続けることを約束する。しかし、実際に Stand の最初のライブを行うと、ピーターと他のメンバーとの関係がしっくりと来なくなっていた。

最初の Chelsea のアルバムはセールス的には成功したとは言えない結果しか残せなかった。セカンド・アルバムの制作にあたり、バンド内は分裂する。一方は、クロスビー、スティル&ナッシュのようなもっとフォーク寄りの音楽を目指し、一方は、よりロック色の強い音楽を求めた。結果的に、マテリアルの半分はハードなロックで残りの半分はフォーク色の強い曲となってしまう。ステージでも同様で、セットを半分ずつに分けて演奏するという中途半端なセット・リストとなってしまう。そうなれば、当然、客の反応もどちらかに傾くようになり、結果的にフォーク色を求めた Shepley と Brand はバンドを離れることとなった。残る3人はバンド名を Lips と変え活動を始める。

Lips は積極的にライブ活動をし、数曲のデモ・レコーディングも行うが、結果的にはどこの契約も取れなかった。このデモには、その後のピーターのソロ・アルバムに収録された “Don’t You Let Me Down”、”I’m Gonna Love You”、”Hooked On Rock & Roll” なども含まれていた。

しかし、この頃 Benvenga は、結婚を機にロックンロール・ライフからの別れを決意しバンドを去っていく。ピーターは彼の脱退時に、いつか自分にソロ・アルバムを作る時があったら、Benvenga もプレイして貰おうと決めていたそうだが、惜しくも脱退の数年後に Benvenga は病気のためにこの世を去ってしまった。

結局、Lips は Stan とピーターのデュオとして活動することになってしまうのだが、1972年の初めにピーターは、そろそろ自分は、現在の状況を超えてジャンプ・アップするべきだと感じはじめ、Lips の活動を停止させてしまう。

ピーターは、現状を変えるための手始めとして1967年にブルックリンで出会ったリディア・ディ・レオナルドと結婚する。2人は新婚旅行でイギリスのロンドンへと向かうが、ちょうどその頃エルトン・ジョンが彼のバンドのドラマーを探しているという話を聞いた。ピーターは自分こそ、その役にふさわしいと思い、応募しようとするが、すでに他のドラマーに決定した後であった。ピーターは自分の将来に不安を抱えつつニューヨークに戻った。

しかし、答えは簡単に見つかった。ある日、ローリング・ストーン誌を読んでいるときに、ふと個人広告欄が目についた。ほとんどが、Tシャツの広告や、宗教関連、政治団体関連、薬品類の広告なのだが、いくつかミュージシャンのバンド・メンバー募集広告もあった。しかも、掲載するのは無料であった。ピーターはさっそく「ドラマー。経験11年。成功のためなら何でもやる。」という広告を出した。

ピーターの広告に対する最初のレスポンスの電話があった時に、ピーターはリディアとパーティを開いている最中でワインを飲んでかなり酔っ払っていたそうだ。その電話の相手は、そう、ジーン・シモンズだったのだ。



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