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KISSTORY : 1976 Part2

10492220_694648867267464_7170988108381020844_noriginals7月21日にはアメリカで “The Originals” がリリースされている。”The Originals” は、Alive! 以前の初期3枚のアルバムをまとめてパッケージングした商品で、Alive! や Destroyer を聴いてファンになった人向けに初期3枚もまとめて買って貰おうという戦略だ。
アルバムのジャケットは右の写真であるが、これは Jefferson Airplane のアルバム “Crown of Creation” のジャケットを模したものであると当時は話題になった。

※The Originals テレビコマーシャル

1976年の9月、KISS は Destroyer に続くニュー・アルバムのレコーディングを開始する。本当に当時のアルバムリリース期間の短さは脅威的だ。ALIVE! を含めると6枚目となるアルバム 「ROCK AND ROLL OVER/地獄のロックファイヤー」にはプロデューサーに再び Eddie Kramer が迎えられることとなった。Casablanca としては Destroyer の数ヶ月にも及ぶレコーディング期間は予算的に好ましいものではなかった。また、Destroyer の作り込み過ぎたサウンドは多くの新しいファンも獲得したが、初期3枚のスタジオ・アルバムのサウンドを気に入っていたファンからは敬遠されてしまうという事実もあった。
ポール「ニュー・アルバムにはストリングスは使われていない。合唱団もいない。キーボードも使われていない。全てギターのサウンドさ。」
追求したのは “レコードに収録された曲をそのままライブでも再現できること” という初期の3枚のアルバムと同じコンセプトだった。

メンバーはツアー中に曲を用意し、9月20日から10月11日までニューヨーク州 Nanuet にある Nanuet Star Theater に楽器とレコーディング機材を持込んだ。この劇場は1975年終わりに閉館をしていた。レコーディングをスタジオではなく空の劇場で行った理由は「よりライブでのサウンドに近づける」ことを目的としたためである。Nanuet で録音された音源は10月12日から24日にニューヨークの Record Plant スタジオに持ち込まれてミックス・ダウンが行われた。

Eddie Kramer と Bob Ezrin のアルバム制作に対する姿勢はまったく異なっていると言える。Bob は、プロデューサー=自身の作品であるという意識も強く、作曲から編曲にまで自身の考えを多く加えていく、Eddie はバンドがアルバムに期待していることを聞き、バンドが持っている曲や演奏したサウンドをバンドの希望通りに再現してみせるのだ。どちらが良い悪いという問題ではない。バンドやレコード会社がニュー・アルバムによって何を提示したいのかが明確であれば、誰をプロデューサーに起用するのかが決まるものだ。

プロデューサーに Eddie Kramer が起用されたことに対してエースも多いに喜んだ。自分の演奏が誰か他のギタリストの演奏に置き換えられてしまうということを気にする必要がないからだ。

ROCK AND ROLL OVER 用に用意されたデモ曲をいくつか紹介する。ジーン作の “BAD, BAD LOVIN’,” は、後に “CALLING DR. LOVE” になった曲だ。 “CALING DR. LOVE” というタイトルは、映画/TV番組の Three Stooges(放題:三バカ大将)から引用したとジーンは言っている。

ジーン作の “ROCK AND ROLLS ROYCE” は、アルバムでは “LOVE ‘EM AND LEAVE ‘EM” になった曲だ。デモ時点のタイトルは ROCK AND ROLL とイギリスの車メーカーである Rolls Royce 社とかけている。

“I DON’T WANT NO ROMANCE” は、アルバムでは “LADIES ROOM” になった曲だ。

当時、ジーンによって作られたデモに興味深い曲がある。タイトルを “MONGOLOID MAN” といい、エアロスミスの Joe Perry と共同で作られた曲であり、デモ録音も Joe Perry と Michael Des Barres と行われたらしい。しかし、残念ながらこの曲が ROCK AND ROLL OVER には採用されなかった。

20140428_130945000_iOSROCK AND ROLL OVER レコーディング時に興味深い曲も録音された。タイトルを “QUEEN FOR A DAY” と言い、ヴォーカル抜きの演奏部分だけがレコーディングされた。(この録音は Destroyer のレコーディング時だという説もある)この曲はなんとエースが始めてボーカルを取る曲として用意されていたのだが、エースが「まだ歌える状態ではない」と主張し、ボーカル録音に至らなかった。

ROCK AND ROLL OVER に収録された曲のいくつかは5月にヨーロッパへツアーした際に作られている。”I WANT YOU” もそんな中の1曲だ。イギリスの歴史あるホールでコンサート前のリハーサルを実施している時にリフが出来上がった。
ポール「その会場は、自分に多くの影響を与えてくれた自分にとってヒーローのような存在だったバンドがかつてプレイした会場だったんだ。The Beatles だったり、Led Zeppelin だよ。彼らと同じステージに立っているという事実が嬉しかった。最初のイギリスでのツアーは僕にとっては巡礼の旅みたいな感じだった。その会場でサウンド・チェックをしている時に “I WANT YOU” のリフのアイデアが浮かんだ。その後ホテルに戻ってから曲が完成したんだ。」
当時のツアー・マネージャーだった Sean Delaney も “I WANT YOU” の作曲に参加していると本人が証言しているが、アルバムのクレジットにはその名前は記載されていない。

“HARD LUCK WOMAN” は、ポールがロッド・スチュワートをイメージしながら作られた曲である。レコーディング時には “BETH” の成功を考慮した結果、ピーターが歌うこととなった。
ポール「僕はロッド・スチュワートの大ファンなんだ。ロッドの “You Wear It Well” や “Maggie May” みたいな曲を作りたいと思っていたんだ。そしてできればロッドに歌って欲しいと思っていた。それで出来上がった曲が “HARD LUCK WOMAN” さ。曲が完成した時、ジーンに聴いて貰ったんだ。そうしたらジーンはこの曲を次のアルバムに入れるべきだと言ってきた。次のアルバムにも “BETH” に続く曲が必要だって言うんだ。だから、ロッドへプレゼントすることは諦めた。ピーターが歌うことに決まったのは早かったよ。なんと言っても、一番ロッドに近いハスキー・ヴォイスはピーターだったんだから。」

ROCK AND ROLL OVER の曲作りにおいて(特にポールが歌う曲で)Sean Delaney は多いに貢献をしている。”TAKE ME”、”MR. SPEED”、”MAKIN’ LOVE” の共同作曲者としてクレジットされている。Sean 本人は「”TAKE ME” は、ほぼ自分が作った曲」と語っていたが、ポールと Sean の間でどれだけの分担がなされたのかは明確にはなっていない。

ピーターが持ち込んだ曲 “BABY DRIVER” は、ピーターが Lips に在籍していた頃に作られた曲だ。作曲者は Stan Penridge とピーターになっている。

エースも数曲のデモを持ち込んだがレコーディングできるレベルに達しているものではなかったため、6タイトル目にして始めて作曲のクレジットにエースの名前がないアルバムとなってしまった。

レコーディングも終わった1976年10月、KISS はTV番組 Paul Lynde Halloween special 収録のためにロサンゼルスにあるTV局 ABC のスタジオにいた。収録は10月20日から21日にかけて行われた。番組中ではリップ・シンクで “DETROIT ROCK CITY”、”BETH”、”KING OF THE NIGHT TIME WORLD” が披露された。この番組が放送されたのはタイトル通り10月31日ハロウィーンの夜だった。(放送は10月29日という説もある)

※26分頃と41分頃に KISS が登場します!

4a05661778492ちょうどこのハロウィーンの夜に面白いエピソードがある。この日ジーンとポールはロサンゼルスにあるクラブで The Boyz というバンドの演奏を楽しんでいた。2人はメイクもせずに素顔で会場にいたが、当日はハロウィーンだったため、周囲の観客の方が普段の彼らのようなメイク姿だった。The Boyz は Dokken 加入前の George Lynch と Mick Brown が在籍し、ボーカリストは Michael White という人物だった。The Boyz はライブの最後に KISS のカバーとして “FIREHOUSE” を演奏したのだ。ショーが終わりバックステージにいるメンバーの元に一人の男が現れ、彼らのライブが良かったことを告げ、自分の所属するレコード会社が期待できる新人バンドを探しているので紹介したいと言ってきた。そう、その人物こそジーン・シモンズだった。

Van-HalenPROMOジーンがThe Boyz のライブを観に行った10月末から11月初旬、ジーンはそこで新たなる可能性を秘めたバンドに出会うことになる。それが、Van Halen だった。
※ジーンと Van Halen が出会った日付については諸説ある。Van Halen のオフィシャル・サイトでは、1976年の5月とされているが、出会った場所であるロサンゼルスの Starwood で Van Halen は5月にはショーを行っていない。6月1日にはショーを行っているのだが、その時期 KISS はヨーロッパをツアーしているため、この日付もあり得ない。The Boyz の Michael White はこの10月下旬から11月初旬説を証言しているため、ここでもその日付を採用した。
Van Halen はデモ制作をロサンゼルスとニューヨークで行っているが、そのニューヨーク滞在中に KISS のマネージャーである Bill Aucoin の前で演奏する機会をジーンがアレンジした。しかし、Bill Aucoin は商業的なポテンシャルが感じられないとして Van Halen とは契約をしなかった。KISS を見出した Bill Aucoin にしてはこの時は判断誤りをしたと言えるであろう。デモ制作から約半年後の1977年3月に Van Halen は Waner Brothers とのレコード契約を獲得し、その後の成功は皆さんも良く知るところである。

一方 KISS は、ROCK AND ROLL OVER リリース後のツアーに向けてのリハーサルに余念が無かった。リハーサルは11月7日~21日の2週間行われた。このリハーサルから新しいコスチュームも用意されていた。とは言え、今回のコスチュームは、DESTROYER ツアーで使用していもののマイナーチェンジレベルの変更だった。一番変更があったのがポールで、上着はノースリーブになりブーツのシルバー部分も変更されている。ジーンのアーマー部分もよりシルバーが明るくなりメタリックな感じに変更されている。この時のリハーサルの模様は映像が残されている。
KISS-1977-PROMO




※上の映像には ROCK AND ROLL OVER のレコーディング前に行われた物も含まれています。

このリハーサル中にTV放送用として “LOVE ‘EM AND LEAVE ‘EM”、”I WANT YOU”、”HARD LUCK WOMAN” のプロモーション・ビデオが撮影された。これらビデオは、アメリカのTV番組 Don Kirshner’s “New” Rock Concert で放送された後、アメリカ以外の多くの国でプロモーション目的で放送されている。もちろん日本でも洋楽系の番組で放送された。

20080826113351!Rock_and_roll_over_coverROCK AND ROLL OVER は1976年11月2日にリリースされ、リリース直後にゴールド・レコードを獲得している。また、その同日に DESTROYER はKISS にとって初のプラチナムを獲得した。ALIVE!、DESTROYER、ROCK AND ROLL OVER の3枚のアルバムのセールス動向を見ても1976年にKISS の人気がアメリカ全土で一気に盛り上がりを見せたのは一目瞭然だった。当然、次のツアーのチケット売上も好調を維持していた。

かくして11月24日のジョージア州 Savannah 公演から「Winter Tour 1976/77(通称、Spirit of ’76 Part II)」がスタートした。このツアーから “BETH” がセットリストに組み込まれている。また、”DEUCE” や “100,000 YEARS” という初期のセットリストには欠かせなかった曲たちが外されたのもこのツアーからだ。

12月1日にはシングル盤 “HARD LUCK WOMAN / MR.SPEED” もリリースされている。

20140409_053604000_iOSツアー途中の12月12日、フロリダ州の Lakeland Civic Center にてステージ上で事故が起きてしまう。オープニングの “DETROIT ROCK CITY” を演奏中にステージ上の階段を降りている際、エースが手すりに掴まろうとしたが、その手すりはアース処理がされていなかったためエースは感電して気を失い倒れてしまった。ショーは一時中断されたが、およそ30分後にエースは意識を取り戻し残りのステージを演奏することができた。後日、この時のことを元に名曲 “SHOCK ME” が作曲されたとエースは語っている。
このエース感電事故後、バンドはすぐにギターとベースのワイヤレス化に着手した。今でこそ当たり前のように使用されるワイヤレス・システムだが、当時は KISS と ELO (Electric Light Orchestra) が他に先んじて使用を開始したのだ。ワイヤレス・システムを使用することで、フロントの3人はアクションの制限がなくなった。ステージ上であれば縦横無尽にケーブルの長さや絡みを気にせずに動けるようになったのだ。そういう意味でワイヤレス・システムは KISS のステージングには実にマッチしていたし、必要な機材だったのだ。

ツアーのセットリストには “ROCK AND ROLL OVER” から5曲が追加された。”TAKE ME”、”LADIES ROOM”、”HARD LUCK WOMAN”、”I WANT YOU”、”MAKIN’ LOVE” という今でも多くのファンに愛される曲たちだ。(”CALLING DR.LOVE” が演奏されるのは LOVE GUN TOUR になってから)

12月18日、全米アルバム・チャートに KISS にとって記念すべき状況が起こる。サード・アルバムの “DRESSED TO KILL” が再びチャートインしてきたのだ。その翌週には “ROCK AND ROLL OVER” が最上位となる11位を記録するのだが、この時、チャート上には ”ALIVE!”、”DESTROYER” もチャートに残っていたため、同時期に4枚のアルバムがチャートインをしていた。当時、どれだけ KISS に人気があったのかを知ることができる素晴らしい記録である。

このツアーが始まる前に KISS は Casablanca との契約が延長された。前回の延長はアルバム2枚分(”DESTROYER” と “ROCK AND ROLL OVER” まで)だったが、今回の延長は1977年1月1日から1979年6月30日までに5枚のアルバムを出すことであった。ここで非常に興味深いのが、ソロ・アルバムのリリースについても契約に盛り込まれていたことだ。ソロ・アルバムの作成に至ったのはバンド内に亀裂が生じ、各々のフラストレーションを発散させるために企画されたものと思われがちだが、1976年の後半という、まだ絶頂だった時にソロ・アルバムのリリースは計画がされていたことがわかる。


1976年12月2日にメンフィスでのライブで演奏された “HARD LUCK WOMAN”

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