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KISSTORY : 1975 Part3

pg2_kiss01_5761Cadillac High School

1975年10月9日ミシガン州の小さな町である Cadillac で、その日を「KISSの日」と定めるという奇想天外なイベントが行われた。きっかけは Cadillac ハイ・スクールのフットボール部からだった。1973年に同校フットボール部は年間を通して “不敗” という素晴らしい記録を打ち立てたが、翌1974年の成績はあまり芳しくなく、選手たちは意気消沈していた。そこでチームのコーチは、ロッカールームで選手を鼓舞するために何か音楽が必要だと考えた。フットボールの世界で良く言われる言葉に “Keep it simple, stupid.” というものがある。この言葉のイニシャルを繋げると K-I-S-S になった。これをヒントにアシスタント・コーチが KISS を思い付いた。彼は初期2枚のアルバムを買うほど KISS のサウンドを気に入っていたのだ。まずは、ロッカールームで KISS の曲をかけることから始まった。選手たちもこの企画を喜んだし、試合結果も上々で、その年の以後のゲームは全勝をあげることができた。これに気を良くしたアシスタント・コーチは KISS のマネージメント会社 Rock Steady にことの経緯を感謝の言葉と共に手紙にして送ったのだった。

数週間後、アシスタント・コーチが自宅で寛いでいると1本の電話が鳴った。なんと、電話の相手はジーン・シモンズとポール・スタンレーだった。彼らは手紙の内容を聞きたがった。また、今後のゲームの結果も都度連絡して欲しいと言った。翌1975年のシーズンでアシスタント・コーチは試合の都度、Rock Steady に電話をして結果を伝えた。主に電話を受けたのはスタッフの Alan Miller だった。

1975年5月16日、デトロイトの Cobo Hall でのコンサートには Cadillac High School の生徒8人が客席にいた。生徒たちは、この時初めてロッカールームでいつも聞いていた曲がライブで演奏されるのを聴いたのだ。その後、アシスタント・コーチは、KISS が Cadillac 市から近い Kalamazoo 市の Western Michigan University でコンサートを行うことを知り、Rock Steady に連絡をして KISS が Cadillac の町を訪れることはできないかと提案した。Alan Miller もその提案を前向きに検討すると回答をしてくれた。
Cadillac は小さな町だった。KISS を呼ぼうという話はすぐに市長や学校の理事長などに提案され、快諾を得ることができた。ただし、快諾した本人たちは KISS がどういうバンドなのかを知ってはいなかった。話はトントン拍子に進むかに思われたが、市民や町議会で活発に議論されることとなった。KISS のメイクアップ写真を見た市民から「あれは悪魔崇拝の証だ!」という声が上がった。1970年台のアメリカの田舎町では、まだまだ宗教的な考えは他の多くの事柄より重要だった。(現代でもそういう人はまだまだいると思うが…)挙句には地元の牧師協会の会長から「なぜ、あなた方は悪魔の手先のようなグループを市に呼びこもうとするのか」などと言った手紙が届くほどであった。

反対意見はあったものの、こういった議論も含めて KISS の訪問は、Cadillac が始まって以来の活性を町に呼び、市民の結束を強くすることとなった。

cadillacgeneコンサートは学校内のジムで行われることとなった。キャパシティは3000人以下だ。そのため、ここでライブが行われることは公にはされなかった。市民以外のファンが大量に流れ込んでくるのを恐れたためだ。当時はすでにデトロイトの Cobo Hall をもいっぱいにするほどの人気だったため、デトロイトからほど近い Cadillac 市では多くのファンを受け入れることはできないと考えたためだった。また、アシスタント・コーチは KISS を迎える日には学生全員で KISS のメイクをしようということを考え、Rock Steady に提案した。Rock Steady もそのアイデアを気に入りメイク道具一式を送ってくれた。

かくして1975年10月19日の当日を迎えた。当日は朝から学校内の地下室をメイク部屋とし、学生や先生たちを含む関係者一同が、KISS のメイクを施し、KISS の訪問を迎えたのだった。
KISS のメンバーは黒い大きなリムジンで現れた。駐車場でそれを迎えた全員は、リムジンのルーフからジーンが姿を現すと大きな歓声で彼らを迎えたのだった。学校内ではきっかけとなったフットボールチームと共にグラウンドに立ち、チアリーダーたちやスクール・バンドのメンバーたちと写真を撮った。
コンサートでは会場の大きさから背面の巨大な KISS ロゴを持ち込むことができなかった。そのため、生徒が描いたキスマークと KISS ロゴが描かれた看板をドラム台の後ろにセットした。

◆KISS Cadillac Documentary 1975

cadillac_liveステージに登場した KISS は観客席を観て驚いた。観客のほぼ全員が KISS のメイクをしていたからだ。
ポール「ステージに上がって観客全員が KISS メイクをしているのを観るのは現実離れしている感じだったよ。若者たちだけじゃない。お年寄りから小さなキッズまでみんながメイクをして楽しんでいるっていうのは美しい光景だった。子どもたち、ティーンエージャーとその親の世代の人々、市会議員や役所の人々まで全員なんだ。でも、この世代を越えたファンって今の KISS では、いつもの光景さ。それを Cadillac 市の人たちは随分と先取りしていたってことだよね。」

当日のライブはほぼ通常通りのセットリストで行われたが、”COLD GIN” は演奏されていない。これは幼い子供たちへのアルコールへの興味を煽ることを避けるためだった。また、キッズが恐怖心を起こさないように血を吐くパフォーマンスも行われなかった。

breakfastplaquesコンサートの翌朝、市の月例の朝食会が行われ、KISS のメンバーも迎えられた。参加した市長を始めとする参加者はここでも KISS のメイクを行っている。(市長のメイクはジーンが手伝った。)ここで、市長は KISS に対して「Key To The City」を渡している。(※Key To The City:顕著な活躍をした住民、特別な来賓などに市が贈る名誉の賞。またそれを記念する鍵の形の飾りのこと)朝食会の後に市内でパレードが行われた。以前は Mitchell Street という名前のメイン通りは、この日から KISS Boulevard と名前を変えた。映像でも、パレードのフロートに乗るメンバーの姿を見ることができるが、この映像中でポールが周囲の人々に投げているのは ピックではなく、 Hershey の KISS チョコレートだった。

◆KISS – Cadillac High Visit 1975 – Alternate Footage

KISS-1975CadillacHighSchoolパレード後に学校のフットボール・グラウンドに戻ると隣接した湖の向こうから1機のヘリコプターが大きなプロペラ音を響かせやって来てグラウンドに着陸した。そのヘリコプターにKISS のメンバーが乗り込むと爆音と共に離陸をした。その場にいた大勢の生徒たちは手を振り、大声で「Good-bye!」と叫び、KISS を見送ったのだった。するとヘリコプターから大量のフライヤーがばら撒かれた。そこには “Cadillac High – KISS Loves You!” と大きく書かれていた。(ヘリコプターを使用した別離というのは演出の1部で、近くに停めてあった車までの距離を飛行後は車で次のツアー先に向かったという話もある。)

このイベントで、学校内のみならず市全体が一体となったと当時を覚えている人たち全員が声を揃えている。また、ロック音楽に対する認識も大きく変わったと言われている。

 

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当時を振り返ったTV映像
◆KISS Goes To Cadillac High School

◆1975 Dressed To Kill Tour Promo Film

Alive! の成功から一躍スターダムに!

Hol_ng6991975年11月に “Alive!” から “ROCK AND ROLL ALL NITE” のライブ・テイクがシングルカットされた。B面には同曲のスタジオ録音が収録されている。”Alive!” の売上は好調で12月には 500,000枚を売り上げたとして GOLD ディスクに認定された。チャート上でも TOP10 に食い込む9位を勝ち得ることができた。また、シングルの “ROCK AND ROLL ALL NITE” も順調に売り上げ、12位まで順位を上げ、Top40 のチャート上に14週間も掲載されるほどだった。

1976年のツアーに向けて初めてのマーチャンダイジング商品となるツアーブックの作成も進められた。コンサートに訪れたファンが、その記念として持ち帰れるものを作りたいというアイデアは Bill Aucoin の発案だった。その後、ベルトのバックルとオフィシャルTシャツの作成が発表されている。

ポール「最初の3枚のスタジオアルバムはライブ動員に反してあまり売れなかった。僕たちは自分たちの本来のサウンドを録音できなかったんだね。プロデュースの方針もあっただろうし、資金的な問題もあった。そして録音の技術的にも未熟だったんだ。」

多くのアーティストはヒット曲が生まれてからライブ・アルバムを作っていたが、当時の KISS にはまだヒット曲と呼べるような曲はなかった。だが、Alive! は売れたのだ。多くのファンが『やっと、本来の KISS のサウンドが聴ける』と思った結果である。

実際のところ、 Alive! は KISS にとっても Casablanca にとっても生きるか死ぬかを賭けたレコードだったのだ。Alive! の成功により、一時は決別の危機まで行った Casablanca との契約は延長されることとなった。Casablanca から KISS のマネージメント会社である Rock Steady には2百万ドルの小切手が送付されている。(1975年の2百万ドルだ、2014年の今だったら…)
Casablanca にとっては起死回生の1枚になったわけだが、その頃からディスコミュージックが流行の兆しを見せており、同じ Casablanca に所属していたドナ・サマーのレコードも売れ始めていたことも Casablanca への追い風になった。
※ディスコ全盛時に流行った12インチのロング・バージョンというレコードのリリースも Casablanca が始めたのだった。そういう点でも Neil Boggart という人物は先見性があると言える。

1f723f2c65adce61146af3b993c576d8エース「多くのギタリストが俺に言うんだよ。『Alive! は僕にとってのバイブルだ』ってね。みんなが Alive! の俺のプレイからギターを覚えたって言うんだ。もし、あのアルバムが失敗してたらレコード会社との契約も切れていたかもしれない。でも、俺は KISS のサウンドを収めようと思ったらライブしかないってずっと信じてたんだ。オーディエンスがインスパイアしてくれたからいい演奏してるよね!」

※KISS トリビア
Stephen King の ”Christine” に『You drive us wild, we’ll drive you crazy』という文章が登場している。ジーンは “ROCK AND ROLL ALL NITE” の歌詞を作る時に参考にしたと言っている。

1975年12月31日にニューヨークの Nassau Coliseum で行われたショーで Alive! がゴールド・ディスクを獲得した記念の盾を送られている。

では、続いて1976年!という前に…1976年に発表される「DESTROYER/地獄の軍団」だが、実は1975年の8月にベーシックな部分の録音が開始されている。 DESTOYER の当初製作スケジュールは、これまでのスタジオ・アルバムと同様に2週間程度で録音~トラックダウンの作業を終わらせ、1975年の11月には発売予定だったのである。ところが、「プロデューサーに Bob Ezrin を迎えたこと」、「Alive! が当初想定以上に売れたこと」を受けてスケジュールが変更されたのだった。

→ 1976年に続く

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