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KISSTORY : 1974 Part2

20140222_034243000_iOSNeil Bogart と Bill Aucoin はTVにも目を向けていた。1981年にMTVが開局するまではハードロックバンドがTVに出られる機会は少なかったが、この年に KISS は、”Dick Clark’s In Concert”、”The Mike Douglas Show” の2番組に出演を果たしている。

“Dick Clark’s In Concert” の収録は2月21日にロサンゼルスの Aquarius Theatre で行われ、3月29日に放送されている。
ポール「”Dick Clark’s In Concert” への出演は、まだまだ知名度が低かった僕たちにとっては、とても大きな出来事だったよ。放送があった日はニュージャージーでショーがあったんだ。僕たちはショーが終わるやいなや急いでホテルに戻って一つの部屋に全員で集まった。自分たちがTVで演奏しているのを観るって最高だよ。」

“Dick Clark’s In Concert”

4月29日にはフィラデルフィアのスタジオで “The Mike Douglas Show” の収録が行われた。ジーンがインタビューを受け、キッシング・コンテストの優勝カップルもジーンと並んでTV出演を果たした。この時は事前収録ではなくライブ(生放送)で演奏がされている。(TV局の担当からは事前収録を薦められたが、KISS 側がライブ演奏を希望したそうだ。)また、誰がインタビューを受けるかをメンバー間で話し合った。
ポール「僕は緊張するから嫌だと拒んだんだ。それでジーンが行ったんだけど、横で観ていて可笑しかったよ。ジーンはわざと声を替えて“俺は悪魔の再来だよ”とか言ってるのに、共演したコメディエンヌにユダヤ・ボーイとか言い返されちゃうんだ、メイクをしてるっていうのにね!」
※当時のポールはまだ若かったんですね!今では先頭に立ってインタビュー受けるのに…

“The Mike Douglas Show”

KISS のツアーは続いていた。最初は当然、他のアーティストのオープニング・アクトとしてのツアーになった。Neil Bogart の友人だった Jeff Franklin が経営する ATI(当時の大手コンサート・ブッキング・エージェンシー)は、KISS を Blue Oyster Cult、Manfred Mann’s Earth Band、REO Speedwagon、Nazareth、Uriah Heep、Rory Gallagher らのツアーに同行させていった。それらのどの会場でも KISS は観客の度肝を抜いていったのだ。それも当然だった、KISS は例え20人の観客の前でも2万人の観客の前でも全力でプレイしていたのだから。

0eaf5d6fefc4536f55cc485ecd85ad87とはいえ、1974年当時のツアーはコンサート会場となる都市間の移動は1台のステーションワゴンと1台の機材用トラックを利用し、安いモーテルに泊まり、簡素な食べ物と短い睡眠時間、それらに加えたハードワークな日々をメンバーとスタッフに強いた。さらに金銭的にはまだまだ厳しく、メンバーには週に$60の給与しか支払われていなかった。それでも、ポールは74年前半のツアーは楽しい思い出でいっぱいだったと語っている。
ポール「夢の中にいるって気持ちだったよ。レンタカーのステーションワゴンに乗ったロックスターさ!(笑)ホントにエキサイティングだった。栄光に向かっての軍隊って感じだったね。僕たちは信じられないくらいな友情で結ばれていたし、周囲のスタッフにも情熱が伝わっていたよ。」
ジーン「デビュー当時のツアーは華麗というには程遠いものだったさ。1台のステーションワゴンで1日に数百マイルも移動したんだ。ワゴンの後部座席で寝てたし、町が見つけられなければ高速道路の端で用を足したりもしたよ。ドライブインでハンバーガーやホットドッグを食べた。俺たちは若く純真だったんだ。人々が学校に行き、仕事でオフィスに閉じこもっている時間に俺たちはツアーをして回っていた。まさにロックンロール・ジプシーだったんだ。」

ポール「モーテルに泊まる時は2人で1部屋だった。いつも女の子たちも一緒にいたけどね!大抵はピーターと僕が同室だった。楽しい思い出もたくさんあるけど、いつも一緒にいると不満も溜まるもんさ。ピーターは僕よりも音楽業界でのキャリアが長かったから、”敬意を払え” なんて言ってたね。だから、僕は “僕との出会いを待ってたんだよな” って答えてたよ。(笑)」

d7a1dfb446261d0660d22f5ea39640fbオープニング・アクトとしてのギャラは1晩で$750ほどだった。そのほとんどが、車のガソリン代、ロード・クルーの給与、ホテル代で消えていった。(1975年には倍の$1500になっていたそうだ。)

ロックンローラーとしての楽しみの一つでもあるグルーピーとの関係もメンバーは大いに楽しんだ。Sean Delaney の毎晩の仕事はメンバーの部屋から女の子たちを追い出し、「明日に備えて早く寝ろ!」と叫ぶことだった。
ジーン「ポラロイドカメラを考えたヤツを尊敬するよ。俺は夜を一緒に過ごした女の子たちのポラロイド写真を撮るのが習慣になったんだ。写真の裏には日付と出会った都市の名前、そして女の子の名前を書いたよ。毎朝、他のメンバーが “昨日はどうだった?” って聞くから、その都度ポラロイド写真のアルバムを手渡してやったんだ。その数は数千枚になったね。」

1974年に KISS がオープニング・アクトを務めたバンド(抜粋)
Savoy Brown、Manfred Mann’s Earth Band、Suzi Quatro、Argent、Mike Quatro Jam Band、New York Dolls、Blue Oyster Cult、Uriah Heep、Silverhead、etc.

初期の KISS のツアーには問題点が少なからずあった。何しろ他のロック・アーティストのツアーとは機材の量が違うのだ。衣装、楽器、アンプ、ドラム・ライザー、ドライアイススモークマシン、パイロ、火柱用の機械、血糊、紙吹雪の山などの全てを少人数のロード・クルーで町から街へと運んでいった。ロード・クルーにはメンバーのボディ・ガードの役割もあった。天候によって機材運搬は予定通りに進まず、開演ギリギリにセットアップが完了することもあった。特にピーターのドラム・ライザーは元はTV撮影用にピアノをアップ・ダウンさせるために作られたものであったため、(ピーターの叩き方が毎夜激しかったという理由もあったが)故障が多かった。

a7acb1eb84c09847cfab73a92fe2a99d当時のドレッシング・ルームからはいつも笑い声が聴こえてきた。メイクが終わり、コスチュームに着替えた後は、楽器の練習をしながらジョークを言い合った。ピーターはジーンのブーツに生卵を入れるなんていういたずらもした。エースは毎日新しいジョークを仕入れてきてはジーンやポールを笑わせた。開演5分前にはドレッシング・ルームを立ち入り禁止とし、ジーン、ポール、エース、ピーターの4人は互いに手をつなぎ、声を合わせた “Let’s kick ass!”

当時のライブのオープニングには、Sean Delaney がマイクを取り「Put your two lips together and give a warm welcome for KISS!」と叫んでいた。そのオープニングに力強さを感じないと思っていたロード・クルーの J.R. Smalling が、ある日TVを観ていた時にトヨタのCMがこう言うのを聴いた「You asked for it, you got it – Toyota.」これは使えると思った彼は少しアレンジを加えてこう叫んだ「You wanted the best and You got it! The hottest band in the land KISS!」
※77年頃までは “the hottest band in the land(北アメリカ大陸を指す)” だったが、以降は、”the hottest band in the world” になっている。ALIVE! と ALIVE IIを聴き比べてみると違いがわかる。
※訂正:このオープニングのアナウンスが始められたのは1975年5月31日からであることがわかりましたので、そちらに転記することとしました。

ピーター「ロック・コンサートに来るオーディエンスって2つ欲しいものがあるんだ。1つはロックンロール、そしてもう1つが身体を動かして汗をかくことさ。僕らはどっちもあげることができた。僕らは観客が望むものならなんだってあげることができたんだよ。アンコールが欲しいっていうなら1回でも2回でも応えたよ。例えそいつが、グラム好きだろうと Hell’s Angels(暴走バイカー)だろうと労働階層の連中だろうとね。」

◆1974年4月18日 ルイジアナ州 Baton Rougeでのライブ・サウンド

※Strutter を最初ジーンが歌っている!

ツアー・スケジュールの日程は厳しかったが、楽しかった思い出が溢れていた。ある日、Savoy Brown のメンバーが酔っ払ってホテルの部屋からテレビを階下のプールに放り投げた(The Who のマネだ!)そのお陰で翌朝、同じホテルに泊まっていた KISS や他のバンドのメンバーも容疑をかけられて、警察の尋問を受けるはめになってしまった。警察の尋問は長く、なんと飛行機に間に合わなくなってしまった KISS は、慌ててレンタカーを借りて、次のコンサート会場がある都市まで行かなければならなくなった。

アラスカ州のアンカレッジでのコンサートは会場が空軍基地内だった。観客のほとんどは軍に勤務する連中で、どこで伝わり間違ったのか、全員が男はタキシード姿、女はドレス姿だった。彼らが期待していたのはスローで踊れる曲だったのに、そこに出てきたのが KISS だった。火を吹き、血を吐き、火柱とパイロがドカ~ン!…それは決して観客たちが望むものではなかった…。

※6月1日にサンフランシスコの Winterland Ballroom でコンサートが行われたが、この日の朝にポールはロサンゼルスのタトゥー・ショップ Lyle Tuttle’s Tatto Parlor で、右肩にバラの刺青を入れている。

※1974年の前半には数回 Aerosmith とも共演している。
ギタリストの Joe Perryが語っている「KISS と初めて同じステージに上がった時に思ったよ。ロック・ビジネスはこんなとこまで来ちまったのか!?火を吹くなんて既に音楽じゃない!俺たちにあんな真似はできないぞ!ってね。」
Aerosmith と共演した1974年4月7日と4月17日のショーはラジオ放送もされている。

paul1974_1ツアーが進むにつれて ATI には悩みが生まれてしまった。KISS の勢いが凄すぎて、一緒にやっても良いというバンドが減ってきてしまったのだ。ATIの幹部連中は悩み、Casablancaの会議室で Neil と KISS のメンバーに「このままでは、ツアーが継続できなくなってしまう。少しレベルを下げることはできないか?」と言ってきた。それを聞いたポールは開いた口が塞がらなかった。ATI の言っていることはリングに上がったボクサーに片手を後ろに廻して戦えと言っているようなものだったのだ。話を聞いていた Neil も、その話だけは飲めないと突っぱねるしかなかった。

KISS の成功とデトロイトという街を切り離しては語れない。70年代前半のデトロイトという街は自動車工業が盛んだった。当時のアメリカはまだ日本車攻勢もなく、アメリカ製の大型な自動車が売れまくっていた。デトロイトはフォード、GM、クライスラーという大手の自動車メーカーがその工場を置く「生産拠点」となっていた。街に住む住民のほとんどは自動車工場勤めの労働者たちだった。工場でのライン作業という単調な仕事の中での少ない楽しみの一つに音楽があった。それもサイモン&ガーファンクルのような静かな音楽ではダメだ。ラジオから流れる音楽は、工場の騒音を掻き消すようなラウドでアップテンポな曲が好まれた。

1974年の4月7日にデトロイトのロック系ラジオ局がベネフィット・コンサートを開催した。ヘッドライナーは、Aerosmith、他の出演者は Bob Seager、Ted Nugent そして KISS だった。このコンサートは実は Casablanca が仕組んだものだった。どうしてもデトロイトのロック好きな労働者層をファンに迎えたい Casablanca は地元のラジオ局にオン・エアの依頼をしていたのだが、そこの DJ は、Casablanca のオープニング・パーティに出席していた人物であり、KISS のサウンドをあまり気に入っていなかった。そこで、Casablanca は、コンサートを開催し、KISS の人気に火が付くようだったら、ラジオでヘビー・ローテーションをしてくれるように依頼したのだ。結果は…もちろんその後の歴史が語っているように大成功だった。観客はほとんど曲も知らないバンドに大きな声援と喝采を贈ったのだ。(KISS を観て満足した客が会場を離れていく様子を見てバックステージにいたスティーブン・タイラーはレコード会社の関係者に怒鳴っていたらしい…)

ATI には上記のブッキングに関する悩みに加えて、もう一つの悩みがあった、KISS のツアーにかかる費用が膨大過ぎたのだ、例えオープニングアクトであっても KISS は全ての機材を持ち込んだ。巨大な KISS ロゴ・サインやアンプ・キャビネット群にドラム・ライザーも含めると当時のヘッドライナーの機材よりも多い場合もあったほどだ。

また、Bill Aucoin の ROCK STEADY も経済的に厳しかった。ホテルの滞在費用やトラックのガソリン代などは Bill Aucoin 個人名義のクレジット・カードで支払われていたが、ある日、上限金額を越えてしまい、メンバーとロード・クルーはホテルに缶詰になる日まであった(支払いされるまでチェックアウトができなかった)。また、小銭稼ぎのために車メーカーやラジオ・キャンペーンのコマーシャルで歌うこともあった(その時は誰が歌っているのかも、ましてや KISS のメンバーであることも隠されていた)。

悪いことは重なるもので、レコード会社である Casablanca も親会社にあたる Warner Brothers と対立してしまう。Warner Brothers には自分たちから積極的なセールス・アプローチをするという姿勢があまりなかったが、対する Casablanca の Neil Bogart は何とか売れるようにレコード店やラジオへの宣伝費を使いたかったのだ。両社の話は決裂し、Casablanca は設立1年にして大手 Warner Brothers との関係を終結させ、独立したレーベルとなってしまった。

ツアーがいったん終了した8月に KISS はセカンド・アルバムの録音に入る。”Hotter Than Hell” だ!

1974年 Part3 に続く

◆1974年4月18日 Memphis でのライブ・サウンド(当時FM放送された音源)

◆1974年当時のAerosmith

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