ビル・オーカインが KISS のライブを Diplomat Hotel で観たのと同じ頃、Buddah レコードの ケニー・カーナーは、KISS のデモ・テープを聴いて、当時の上司だったニール・ボガートに KISS と契約すべきだと提案していた。当時、ニールは自身のレコード・レーベル Casablanca を立ち上げようとしているところだった。ケニーからの提案を受け、KISS のデモ・テープを聞いたニールは、翌日ケニーに言った。「よし、このバンドと契約しよう!ただし、Buddah レコードじゃない、このバンドは Casablanca が初めて契約するバンドになるんだ!」
1960年代後半に設立されたATI(American Talent International)は、ハードロック系バンドを得意とするコンサート・ブッキングの会社だった。ATI の社長であるジェフ・フランクリンは、ニール・ボガートの友人で、KISS が Casablanca レコードと契約をする時に協力をしている。
ここで少しニール・ボガートという人物を説明しよう。
ニールは幼い頃からエンターテイナーとしての道を進みたいと考え、最初は役者になった。役者としてオフ・ブロードウェイの舞台に上がり、TVやコマーシャルにも出演している。10代後半にソング・アンド・ダンスのチームに入ることになり、船上でのショーなどに出演していた。20歳になった頃、ソロでレコードデビューをしないかと声をかけられ、1961年にニール・スコットという名前で Potrait レーベルから “Bobby” という曲をリリースしている。この曲は当時のTop40にまでなるほどのヒットをした。だが、その後ヒットは続かず、歌手を辞めて他の道を進む決意をし、Cameo-Parkway というレコード会社に入社したが、同社が売却されることとなり、Buddah レコード社に移った。Buddah レコードはバブルガム・ポップ(アイドル系ポップ)を得意とするレコード会社だった。そのジャンルは経験上でもニールが得意とするジャンルだったのだ。
だが、ニールの貢献に対して Buddah レコードからの報酬は望むほどではなかった。そこで、ニールは、自身のレーベルを立ち上げることを考え始めた。また、ニールは「バブルガム・ポップの時代はじきに終わる。これからはロックンロール系が流行るはずだ」と睨んでいた。そして、1973年9月にニールは、大手 Warner Brothers 配下のレーベルとして Casablanca を立ち上げたのだ。なぜ、Casablanca という名前にしたか…単にニールが同名の映画が大好きだったからというのもあるのだが、ニールが振り返っている。「元々自分の姓は Bogatz だったんだ。でも、ビジネス上では Bogart と名乗っていた。自分のレーベルを立ち上げるにあたって何て名前にするか悩んでいた。ある晩、ベッドに横になって考えたんだ。…オズの魔法使いが住んでいた Emerald City はどうだ?もしくは、Paradise Records もいいな。自分の立ち上げるレーベルが自分のパラダイスであって欲しいしな。でも、Bogartが作るんだ…Bogartがいる場所、Bogart…そうだ!Bogart がいるのは Casablanca じゃないか!!」

※映画 Casablanca に主演した俳優の名がハンフリー・ボガート(Humphrey Bogart)だった。
当時も今も Warner Brothers と言えば大手のレコード会社だ。当初、ニールからの連絡に Warner Brothers 側も悩んだ。だが、これまでにニールが、Buddah レコードでやってきたこと(どちらかといえば、通常のやり方ではない。無理やりに金を注ぎ込んだりもしていたが、必ず結果は残してきていたのだ。)を考慮し、結果として立ち上げ資金に$750,000(およそ8千万円)を提供している。
だが、Warner Brothers が、Casablanca に望んでいたのは、ライト・ポップでシングル・ヒットするレコードだった。まさか、最初に契約するアーティストが KISS のようなハードロック・バンドになるとは思ってもいなかった。
ケニー・カーナーから KISS と契約すべきと聞いたニールは、まずマネージャーは誰かを確認し、すぐにビル・オーカインに連絡をしてきた。ニールは、KISS のメイクアップや凝ったステージ演出は度外視で、純粋に曲や演奏が気に入っていたのだ。ニール・ボガートとショーン・ディレイニーが以前から顔見知りだったというのも話が早く進んだ一因だったかもしれないが、KISS が成功を手に入れるための『運命の歯車』が回り始めていたのだ。
さっそく、ニールに演奏を見てもらう場所をセッティングすることとなった。だが、大音量のハードロックバンドを受け入れてくれるリハーサルスタジオが簡単に見つからずに、写真家 Henry LeTang のスタジオを借りることとなった。

会場となったスタジオは狭く、ステージと言っても小さなもので、周囲の壁は鏡で覆われていた。椅子は数人掛けのベンチが数脚あるだけだった。そこにおよそ40人の関係者が詰め込まれた。Casablanca からは、ニール・ボガート、ケニー・カーナー、リッチー・ワイズ(プロデューサー)などが来ていた。ROCK STEADY からは、ビル、ショーン、ジョイスが参加した。会場の準備が終わり、KISS が集まった人たちの前に登場すると Casablanca から来た人々は皆、一様に驚いた。メイクをし、衣装を着て6~7インチのブーツを履いたメンバーはとにかく巨大で恐ろしかったのだ(当時のメイク、衣装では恐怖を感じるのも理解できる)。KISS は1曲目に “NOTHIN’ TO LOSE” を演奏したが、演奏が終わっても拍手や歓声がなかった。最前列のベンチに座り、手を伸ばせば触れるほどの距離でメンバーを間近で見て、大音量の演奏を聴いた Casablanca からの参加者は恐怖とショックで拍手することすら忘れてしまっていたのだ。すると、ジーンはステージを降りて、ニール・ボガートの目と鼻の先に顔を近づけると、彼の両手を取り強制的に拍手をさせたのだった。するとニールは立ち上がり、自ら拍手をし、他の参加者も同様に歓声を上げた。ジーンはこの契約はうまくいかないかもと思ったが、ニールの様子を見て安心し、ポール、エース、ピーターの顔を見た。ニールが振り返っている「初めて見た KISS の演奏は、雷に打たれたようだったよ。彼らのサウンドもバンド・イメージも俺が7年間探し求めていたものだった。音楽とヴィジュアルが完全に調和したバンドにやっと出会えたんだ。」
数曲の演奏を終えた KISS はその後、狭い部屋で立ったままニール、ビル、ジョイスと打ち合わせをした。そこで、ニールは、彼らの演奏に興奮したこと、自身の新しいレーベルである Casablanca の最初のアーティストとして契約したいこと、どんな未来が待っているのか、スターになることを約束する、などとメンバーに語った。それを聞いたピーターは感激のあまりぶっ倒れてしまったが、いつの間にか部屋にいた(ピーターも含めた)全員で大笑いを始めていた。これでレコード契約も決まり、ハード・ワークな日々が始まるのだった。
1973年11月1日 KISS は、Casablanca レコードと3枚のアルバム・リリース契約を交わした。当時は、最初に契約をするのがアルバム3枚というのが普通だった。3枚目までに成功しなければ、契約はそこで終了、成功すれば契約延長となるのだ。新興のレーベルとの契約はとてもエキサイティングだった。全てのメンバーが KISS の成功に向けて全力で取り組んだ。
しかし、KISS と契約をしたことでニールは周囲から「狂ったのか?!」と言われてしまうのだった。「今までポップ路線で売れていたニールが最初に契約したのが、ハードロック・バンドなのか?!」
周囲の声をよそに Casablanca はプロモーション活動を開始する。ニールは、世間を楽しませることなら投資を惜しまない人間だった。また、友人にATI(ハードロック系を得意とするプロモーター)を経営するジェフ・フランクリンもいた。ATI以外に問い合わせても「ドラム・ライザーなど持って行けない!メンバーと楽器だけで来い!」と断られていたのだが、彼らは投資を惜しまずに KISS のツアー計画を立てていた。ピーターが振り返っている「ニールのやり方は半端じゃなかったよ。彼は1ドル儲けるために1000ドルを費やすようなヤツなんだよ!彼のことは大好きさ。」もちろん、ニールは金を無駄に捨てるような浪費家ではなかった。最終的に儲けるための策をいろいろ考えてプロモーションの計画を立てていたのだ。ATI のジェフ・フランクリンによれば、ニールは最高の営業センスを持っていて、エスキモーに冷蔵庫を売るほどの才能だったらしい。エース「ニールlは本当に頭がいいと思うよ。彼はチャンスを掴むことに恐れを感じないんだ。他のどんなレコード会社も俺たちに接触すらしようとしなかったのに、ニールは、一緒にサイコロを振ってくれたのさ(賭けに出たの意)。」