1973年11月、いよいよデビュー・アルバムのレコーディングのため、ニューヨークのBell Sound Studiosに入ることとなった。Casablancaにとって初となるアルバムのプロデューサーには、ケニー・カーナーとリッチー・ワイズが担当することになった。彼らは、それ以前もグラディス・ナイト&パイプスやバッドフィンガーなどのプロデュースをコンビで担当をしていた。
本格的なレコーディングに入る前の9月に、メンバーは一度Bell Sound Studiosに入り、デモ録音を行っている。このデモは、ケニーとリッチーがデビュー・アルバムに収める曲を事前に確認&選択するために行われた。ほぼライブ・レコーディングで、普段ステージで演奏していた曲をそのままの状態で録音している。この時の録音は2001年に発売されたBOXSETにも収録されている。(”Let Me Know”、”100,000 Years”、”Let Me Go, Rock ‘N Roll”)

レコーディングに使われたBell Sound Studiosは、ミッドタウン・マンハッタンの西54番街237番地にあり、ニューヨークでもトップクラスのスタジオだった。非常に広いスタジオで、オーケストラを収容することも可能だった。また、同スタジオのオーナー会社は、Buddahレコードのオーナー会社Viewlex社と同じだった。設立されたのは1953年で、キャロル・キング、ニール・セダカ、ポール・アンカ、パット・ブーンなどが使用したことで有名だった。Casablancaがそのスタジオを選んだ理由は、才能のあるエンジニアがいることを知っていたからだ。
プロデューサーのケニー・カーナー「私が最初にKISSのオリジナルのデモを聴いたとき、感銘を受けたのは曲構成だけでなく、音楽の荒々しさ、そしてリアルさでした。アルバム制作に入るにあたって、それを失いたくなかったのです。メイクのことで大きな反発があるだろうし、KISSはニール・ボガートの仕掛けバンドだと見られることも分かっていました。私たちは、バンドが仕掛けだと思われたり、カーナーとワイズを呼んで、彼らを洗練させ、バンドが本当に演奏できるかのように見せかけたりすると思われたくなかったのです。私は、アルバムがバンドのライブのように聞こえるようにしたかったのです。そうすれば、人々がコンサートで彼らを見たときに「ああ、レコードと全く同じだ!」と言うでしょう。それこそが、Casablancaが欠いていたもの、つまり、本物のロックンロールバンドだったのです。KISSはスタジオに万全の準備をしてやって来ましたが、私はおそらくすべての曲をレコードで素晴らしく聴こえるようにアレンジし直しました。アルバムの曲は、良質でしっかりとしたロックンロールでした。私は、コーラスが適切なタイミングで入ってくるようにしたり、歌詞が長すぎないようにしたりといったシンプルなことをしました。より面白いアルバムにするために私が感じたことを伝え、彼らは常に私の提案を受け入れてくれました。」
レコーディングにかかった期間は13日間だった。録音に6日、ミックスダウンに7日だった。

録音は初日にピーターのドラム、2日目にジーンのベース、3日目にポールとエースのギターが録音され、残りの3日間はボーカルとコーラスに費やされた。録音された曲はこれまでもライブで何度も演奏されてきた曲だったため、録音に時間はかからず、終始和やかな雰囲気で終えることができた。
リッチー・ワイズが彼らのレコーディングを振り返っている「ポールはとても優れたリズム・ギター・プレイヤーだ。自分のやるべき事を良くわかっていた。エースもクラプトンやペイジのスタイルで非常に良いソロを弾いた。彼は大酒飲みで、いつも面白い事を言ってたね。彼は誰のことも「カーリー」と呼んでいたよ。ジーンは常に作業に集中していた。ピーターは僕らの仕事にとても協力的だったよ。アルバム制作中、ジーンと一緒に通りを歩いていたのを覚えている。彼は『この建物が見えるか? この建物を所有するだけでは足りない。このブロック全体を所有しなければならない』と言いました(笑)。振り返ってみると、彼は私がこれまで一緒に仕事をした中で最も集中力のある男でした。」
ケニー・カーナー「ピーターには多少タイミングの問題があり、少し時間の延長が必要になったんだ。KISS のメンバーは音楽的に “巨匠” になることを求めているわけではなかったよ。そう、ローリング・ストーンズと同じスタイルだね。ジーンは常に KISS は音楽ビジネスにいるのではなくエンターテイメント・ビジネスにいるんだと考えていたみたいだね。彼らは本当に『ショーマン』だよ。」
“NOTHIN’ TO LOSE”では、セッション・ピアニストとして著名だったブルース・スティーブンが参加している。「少し前にプロデューサーのリッチー・ワイズと僕のアルバムで一緒に仕事をしたんだ。リッチーは、自分がプロデュースしている新しいKISSっていうバンドのレコードでロック調のピアノを弾いてくれないかって連絡をしてきたんだ。レコーディングをした日はとても寒くて、僕は凍えた手で古く硬いキーのスタインウェイのピアノを弾いてる内に指から出血しちゃったんだ。レコーディングが終わったところにジーンとポールが演奏が良かったって言いに来てくれたんだけど、血だらけのピアノのキーを見てビックリしてたよ。それ以来、ジーンは僕に会うたびに“指から血は出てないか”ってジョークを言うんだ。でも、KISSのレコーディングに参加できたのは嬉しかったよ。その後、僕のバイオを見るたびにみんなが言うんだ “えぇ!KISSと一緒に演奏したの?!”ってね。」
”LOVE THEME FROM KISS”についてジーンが語っている「俺たちには”Acrobat”っていう曲があったんだ。前半がスローで後半に速くなる曲で、”DETROIT ROCK CITY”のイントロに似たリフだった。プロデューサーのリッチーは後半部分をカットしてインストゥルメンタルの曲にしたがった、それもタイトルに「愛のテーマ」なんていうのを付けてね。俺たちにしたら「KISSからの愛のテーマ」なんて寒気がするアイデアだった。でも、事を荒らげることはやめて、リッチーのアイデアに従ったのさ。」

エース「俺にとって、本格的なアルバム・レコーディングは始めての経験だったんだ。ファースト・アルバムは、俺たちのベスト・アルバムの1枚さ。曲もいいし、サウンドも良かった。俺たちはスタジオで110%の力を出したんだ。」
ケニー・カーナー「ジーンとポールは全ての作業に立ち会っていたよ。彼ら2人は非常に仲が良かった。彼らがバンドをリードしていたんだからごく自然なことではあったね。」

ポール「ファースト・アルバムに収められた曲はどれも素晴らしい出来だった。音楽的に時代を感じさせることがないんだ。僕たちがファースト・アルバムのレコーディングをしている時の写真があるんだけど、スタジオでそれぞれが興奮してたり、戸惑ったりっていう表情をしているよ。僕たちはそれぞれが個性に溢れていた。僕らを結びつけていたのは、バンドへの情熱と成功したいっていう強い気持ちだ。成功に対するイメージはみんなそれぞれ違っていたと思うけどね。他の連中が9時~5時の仕事をしている時に僕たちはレコーディングをしてたんだ。それって夢の中にいるって感じだったんだ。」
ジーン「ファースト・アルバムのレコーディングは夢が叶ったという瞬間だった。全員がハッピーで、全員が良くやっていたさ。もう、他の仕事をやらなくても良いと思ったよ。エースとピーターと一緒に仕事をするのもとても楽しかった。2人ともアルバム・レコーディングできることがとても幸運だと思ってたのさ。とてもいいチーム・メンバーだった。ファースト・アルバムのレコーディング中は誰も酔いつぶれたり、(薬で)ハイになったりしてなかったのさ。ただし、プロデュースには少し不満があった。エディ・クレーマーがデモとして録音してくれたものより少し劣って聴こえてしまったんだ。」

ピーター「あの時、僕らは本当に一体化していたよ。一人はみんなのために、みんなは一人のためてっていう風さ。お互いに初めてのチームだったわけだし、ファースト・アルバムを作る作業は本当に素晴らしかった。僕は意気揚々として“ついにクリエイティブな仕事を手に入れた”って感じてたんだ。70年代初期にChelseaでレコーディングを経験して、Deccaレコードからリリースもしたけど、KISSほどメンバーになって良かったと思えるバンドは他にはなかったよ。本当に心と魂をレコーディングに込めたっていう感じさ。でも、プロデューサー2人の選択は間違いだったかもしれないね。エディ・クレーマーがデモに続いて担当してくれていたら、もっとライブ感があったと思うんだ。」
ポール「アルバムを制作しているということで興奮していたんだけど、かなり早い段階で、サウンドが自分が求めていたものに欠けていると思ったんだ。当時の僕たちのライバルとなるバンドと比較して、競争力のあるサウンドだとは思えなかった。僕たちは、自分たちが何を求めているのか、サウンドの何が欠けているのかを明確に表現する経験も知識もその頃はなかった。僕はいつも、自分たちが持っていた曲は、レコーディングしたレベルよりもはるかに優れていると思っていた。他のバンドたちと世界レベルで競争するという点で、僕たちはチャンスを逃したんだと感じてしまった。僕たちの曲は、世の中に存在する多くの曲と同じくらい、あるいはそれ以上に優れていると思っていたけど、サウンド的には、僕たちのアルバムはかなりおとなしいものになってしまっていたんだ。」

ピーター「カーナーとワイズは、あのアルバムには間違ったプロデューサーだったね。俺たちはエディ・クレイマーと一緒にレコーディングすべきだった。エディは俺たちのデモをプロデュースしてくれ、それがカサブランカとの契約につながったわけだけど、デモの出来はカーナーとワイズと作ったアルバムよりもはるかに生々しく、迫力があったんだ。エディはポールに ”Black Diamond”を歌うのを諦めさせ、俺が歌うように言ったんだ。エディは俺がよりうまく歌えると思ったんだ。」
リッチー・ワイズ「当時は、このレコーディングは完璧で素晴らしいと思ってたんだ。でも、後になって言えることだけど、勢いがないサウンドになってしまっていた。ギターのディストーションは弱いし、アグレッシブな感じを得られていなかったんだ。」
ウォーレン・デューイ(レコーディング・エンジニア):スタジオでアンプの音量で苦労したことを覚えています。特にジーンとの間では。これは、あまりレコーディング経験のないバンドによくあることでした。彼らは、アンプの音量を上げれば、録音したテープでもパワフルなサウンドになると考えていましたが、それは通常そうではありません。私がジミ・ヘンドリックスをレコーディングしたとき、彼は常にエキサイティングでパワフルなサウンドを提供してくれ、私はそれを正確に録音しようとしました。しかし、ほとんどのプレイヤーのギターやベースがステージ音量まで上げられると、通常はただの歪みになり、録音してもパワフルにはなりません。ほとんどの人は家庭用ステレオをそんなに大音量で再生しません。音量の錯覚を作り出す必要がありましたが、それはただ大音量で演奏するだけでは達成できないと思っています。私が大音量のエレキギターのパワーを表現し、ミュージシャンが自信を持ってそこに到達できるようにするコツを本当に知るまでには、何年もかかりました。キース・リチャーズは、粗末な小さなカセットマシンを通してレコーディングすることがよくありましたが、サウンドはかなり素晴らしかったです。しかし、それは大音量ではありませんでした。」
※アルバムにはエディ・ソーランの名前もクレジットされている。エディは、いつもライブで使っていたサイレンをスタジオに持ち込んで、”FIREHOUSE”のエンディングで 鳴らしたのだ。
※ケニー・カーナーがスタジオに向かう時、ジーンと同じ地下鉄に乗り合わせたことがあった。その時、こんな会話があったそうだ。
ケニー「レコード会社と契約できたのに、まだ地下鉄で通っているのかい?」
ジーン「デビュー・アルバムが何枚くらい売れるか想像できるかい?」
ケニー「それはわからないね。」
ジーン「そうだろ。俺もそれはわからない。だから俺はまだ地下鉄に乗るんだよ。」
※ポールはレコーディングにGibson Les Paulを使っている。エースはOvation Breadwinnerを使った。

レコーディング終了後、次はジャケットのデザインに着手された。呼ばれたのは写真家のジョエル・ブロドスキーだった。ジョエルはそれまでにもドアーズやジム・モリソンのジャケットも撮影経験があった。ニール・ボガートとはBuddahレコード時代から関係があった。
ジャケット撮影の前夜、大規模なパーティが開かれた。デザイナーやROCK STEADYのスタッフも参加したそのパーティではみんなが酔いつぶれた、ポールとジーンの2人を除いては…。撮影当日、イラストレーターの ディビッド・バードも呼ばれ、メンバーのメイクをリファインしている。特にピーターのメイクはよりネコらしく見えるように修正された(そのため、ファースト・アルバムのピーターのメイクはちょっと凝ったデザインになっている)。事前にメンバーにはコンセプトも伝えられていなかったため、何も知らないままでジョエルの写真スタジオを訪れていた。コンセプトはビートルズの”Meet The Beatles”アルバムに似せて、4人の顔をクローズアップで載せようというものだった。黒の背景の前で大きな黒い布を身体にかけられての撮影となった。出来上がったジャケットのサンプルを見てポールは少し不満だった。「単なる写真だけのジャケットで、凝ったデザインは何もなかった」からである。ジーン「ファースト・アルバムのジャケットはシンプルだ。“これがKISSだ!手に取るか放っておくか好きにしろ!”って語ってるよ。」