
1974年1月8日、KISSはニューヨークのフィルモア・イーストで、音楽業界関係者向けにレコードデビュー前のお披露目ライブを行った。この日、ワーナー・ブラザーズ関連の販売会社や新聞・雑誌のジャーナリストなどが招待された。フィルモア・イーストはニューヨークで有名なロックコンサート会場であり、最盛期には「The Church of Rock and Roll」とまで呼ばれていた。ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリンなどが出演し、数多くのライブ盤も制作されている。しかし、1971年に閉鎖され、KISSが使用した1974年1月にはヘルズ・エンジェルス(アウトロー・バイカー達)の溜まり場のようになっていたとの情報もある。
このライブの前に宣伝用の写真撮影が行われたが、ポールは撮影に立ち会っていたニール・ボガートから「今のメイクやステージアクションは中性的に見える(当時の他のロックバンドと変わらない)」と言われ、メイクの変更を提案された。その結果、ファンが「Bandit(山賊)」と呼ぶメイクを施して撮影と当日のライブに臨んだ(ポールは気が進まなかったが、チームの一員として指示に従い、5分でメイクを仕上げたと語っている)。しかし、ポールは「Bandit」メイクが自身のキャラクターを全く反映していないと感じ、1ヶ月ほどで元の星型★のメイクに戻した。当日の写真撮影では、カサブランカ・レコードの社長ニール・ボガートもメイクをしていた。
当日、ステージには蜘蛛の巣状のネットが張り巡らされた。それは、廃れたフィルモア・イーストの様子によく合っていただけでなく、広すぎるステージの空間を埋める役割も果たした。
ステージに立ったメンバーは興奮した。ザ・フーやレッド・ツェッペリンが立った同じステージに自分たちが立っていることに感動したのだ。
会場にはジーンの母親やメンバーの友人たちの姿もあった。
ショーの後、ワーナー・ブラザーズの広報誌に掲載された記事は、KISSの楽曲とライブの素晴らしさを称賛していた。
2月上旬、KISSはカナダのエドモントン、カルガリー、ウィニペグでコンサートツアーを行った。真冬のカナダの寒さは厳しかった。両親に車で空港まで送ってもらったポールは、飛行機に乗るまではサマーキャンプに送ってもらうような気分だったが、飛行機が離陸した瞬間にその思いは消え失せた。エースはスーツケースを持っておらず、ショッピングバッグに服を詰めて持参していた。このカナダツアーは、マイケル・クアトロの代役として組まれたものだった。マイケル・クアトロはスージー・クアトロの兄弟であり、彼のショーは演出にも凝っていた。マイケルがキャンセルしたショーは、いずれも学校の食堂で行われる予定で、2月5日にエドモントン、翌6日にカルガリーで開催される予定だった。
地元のプロモーターは当初、マイケル・クアトロと1晩1,500ドルで契約していたが、突然マイケル側から5,000ドルにアップするよう通告された。学校の食堂でのショーで5,000ドルのギャラでは赤字になってしまう。プロモーターが困っていたところ、ATIからデビュー前だがマイケルと同様に演出に凝り勢いのあるKISSというバンドなら1晩500ドルで紹介できると推薦された。同時に、彼の元へカサブランカ・レコードから完成したばかりのレコードとラインストーンのロゴ入りTシャツ、メンバーの写真と紹介文が送られてきた。彼はすぐにレコードを聴き、これならいけると判断してATIからの申し入れを受けることにした。
KISSを呼ぶことに決めたカナダのプロモーターだったが、地元のワーナー・ブラザーズもKISSを知らないような状況の中、懸命に協力を仰ぎ、アメリカからレコードを取り寄せてもらい、身近な友人たちや地元のレコードショップ、AMラジオ局、バー、新聞社などにレコードのコピーを配布してプロモーション活動を行った。また、届いた契約書には180kgものドライアイスとフォークリフト、建築現場で用いる足場と3トントラックを用意するように、さらに空港までメンバーを迎えに来るように記載されていた。これを見たプロモーターは驚いた。それぞれの会場はバスケットコート1つ分くらいの大きさしかないのに、なぜこんなものが必要なのかと…。
コンサートが行われる日の朝9時、地元のラジオ局はプロモーションのためにインタビュー放送を予定していた。現在のファンからすれば当たり前のことではあるが、KISSのメンバーは全員その時間からフルメイクをし、コスチュームを着て、道路を歩いてラジオ局まで来た。この姿と行動にラジオ局のDJは興奮し、その日は何度もKISSの曲をオンエアしてコンサートを告知した。
コンサート会場は学校の食堂だった。まともなステージはないため、食堂のテーブルを並べてガムテープで固定し、強度を持たせるために合板を敷き詰めてステージを作った。当然、その狭さではKISSのロゴサインを吊るすこともできず、ジーンは火を吹くことすらできなかった。
初日のコンサートでは、1枚5ドルのチケットが46枚売れた。しかし、会場には130人近い観客がいた。中には会場の設営を手伝った中国人の学生たちが60人ほど無料で招待されていた。
KISSが演奏を始めると、観客はその音量と容姿に驚きと恐怖に似た表情を浮かべていた。さて、フォークリフトはどこで使われたのか。ピーターがドラムソロを始めると、後ろに設置されていたフォークリフトがドラムセットを持ち上げ始めたのだ。だが、会場の天井が低すぎた。フォークリフトは天井を破壊してしまった。
翌日のカルガリーでは、800人収容の学校の体育館に160人の観客が集まった。体育館内でKISSの大音量が反響し合い、ひどい音が鳴り響いたため、観客の多くは翌朝まで耳鳴りが止まなかった。
続く2月8日、カナダのウィニペグでのコンサートは、マニトバ大学の学園祭出演だった。会場はこれまでの2箇所に比べて広さに余裕があったため、全ての機材がニューヨークから取り寄せられた。それまでの同学校での学園祭のコンサートはお行儀の良いフォークやジャズなどが主体で、学園祭主催者は何か新しいものを持ち込みたいと考えていた。そのため、KISSの出演は当日まで隠されていた。とは言っても、隠したくなくても何も経歴がなく、レコードすら発売されていないバンドを宣伝しようがなかったというのが実情だった。当日はKISSが出演するまで、ステージ上のKISSのロゴサインも、ドラムライザーも、マーシャルアンプの壁も黒幕で覆い尽くされていた。
いよいよKISSが登場した時、一斉にカーテンが取り払われた。観客は驚き、どよめいた。観客の何人かは気に入らなかったのかビールの缶を投げたりしたが、多くはライブに興奮した。この日は一つのミスがあった。”FIREHOUSE”でジーンが火を吹いた後に使用した油がステージ上に大量にこぼれてしまったのだ。スタッフは両手両足を使い、大慌てで拭き取った。おかげで惨事にはならなかった。
2月18日、カリフォルニアのロサンゼルスでカサブランカ・レコードのオープニングパーティーが開かれた。会場になったのはセンチュリー・プラザ・ホテルだった。ニール・ボガートは巨額を投じてパーティーを盛大に行った。当日の会場は映画「カサブランカ」に登場するリックのカフェを模してモロッコ調に飾り立てられた。カジノ風のルーレット台も置かれ、ヤシの木や生きたラクダまで登場していた。迎える側のスタッフも列席者たちも映画の衣装にちなんだコスチュームを身にまとっていた。列席者の多くはレコード業界関係者、ミュージシャンやハリウッドの俳優たちであり、中にはワーナー・ブラザーズ・レコードと契約中のアリス・クーパーの姿もあった。パーティーも半ばを過ぎた頃、会場の一角にあったステージにKISSのメンバーが現れた。KISSはいつも通りのラウドなサウンドで、大きなKISSのロゴ照明を飾り演奏した。また、演出もいつも通りパイロや炎やドライアイススモークを使ったものだった。しかし、会場にいたのはハリウッドに住む高所得者層であり、ニューヨークのキッズたちではなかったのだ。パーティーは全てのレベルにおいて大成功と言えたが、唯一KISSのライブだけは別だった。数曲を演奏した辺りから会場はパイロの煙で充満してしまい、列席者の多くは咳き込み、会場外へと逃げてしまっていた。唯一、アリス・クーパーだけはKISSのショーを最後まで見届けた。アリスは自分のバンドとKISSは基本的に別物と捉えていて、純粋にKISSの曲や演出を称賛していたのだ。
当時からジーンはステージ上や写真撮影時にその長い舌を出していた。一時期は牛の舌を移植したとまで噂されていたが、既にバンドのルックスの珍しさと同様にジーンの舌の長さも噂の一つになっていた。

カサブランカのオープニングパーティーと同日に、いよいよKISSのファーストアルバムが発売された。しかし、ニール・ボガートはKISSはライブでこそその魅力を発揮できるので、すぐにレコードが爆発的にヒットするとは思っていなかったという。プロデューサーのケニー・カーナーとリッチー・ワイズは「レコード評や売上は気にするな。ライブで目に物を言わせてやろう!ライブで自分たちのキャリアを積み上げて行こう!」とメンバーを激励した。そして、KISSはその通りにしていくのだ。
ジーンは素顔でマンハッタンのレコードショップに行き、自分たちのファーストアルバムを買った。他のバンドなら店員に気づかれそうなものだが、KISSの場合はあり得ない。だが、ジーンは自分のレコードを買うという行為にとてもスリルを感じたそうだ。
KISSが初めて写真付きで紹介された雑誌は「Mandate」という名前だった。メンバーも撮影に及ぶまでどんな雑誌なのか知らなかったのだが、その雑誌は「man-date」、つまりゲイのためのポルノ雑誌だった。音楽雑誌でのKISSの扱いはどうだったか。ほとんどの評論家はKISSを見た目(ファーストアルバムのジャケット写真)だけで判断し、子供だましのバンドとして酷評した。ライブを観た若者たちのファンは増えていたが、それがメディアに反映されることはほとんどなかった。70年代の前半にニューヨークからデビューしたバンドといえば、ニューヨーク・ドールズとKISSということになる。ニューヨーク・ドールズはカラフルで派手なスタイルでメディア受けも良かった。西海岸のメディアにも当初受けが良かったが、音楽的な評価は低いままであった。
1974年当時のラジオについても話しておこう。その頃はBillboard TOP40をオンエアすることが多かった。ジャクソン5、ジョン・デンバー、エルトン・ジョン、バーブラ・ストライサンドなどが人気な時期で、ホームタウンのニューヨークでさえ、ハードロックをオンエアするラジオ局はほとんどなかった。ましてや娼婦のこと(BLACK DIAMOND)や、セックスのこと(NOTHIN’ TO LOSE)、アルコールのこと(COLD GIN)をオンエアするなんて当時のDJには考えられなかったことだろう。1週間に200曲近い新曲がリリースされてもラジオで取り扱われるのはごくわずかだった時代で、KISSは苦戦した。そんな苦境を打破しようと、カサブランカ・レコードの広報担当は有名なDJの古いフォルクスワーゲンの室内いっぱいにKISSチョコレートを詰め込んでオンエアを勝ち取るなどの作戦に奔走した。
ファースト・アルバムのリリースから2ヶ月後の1974年4月半ば、KISSのコンサートを観てバンドのことを気に入ったナッシュビルのDJ(彼もニール・ボガートの友人だった)が、KISSに50年代にボビー・ライデルがヒットさせた “KISSIN’ TIME” のカバーをさせたら良いのではないかとニールに提案してきた。というのも、そのDJが活躍していたラジオ局はTop40をオンエアするのが主流で、ハード・ロックを流すことがなかなか難しかったのだ。ニールはこのアイデアが気に入り、すぐさまKISSにレコーディングをさせ、シングル・レコードをリリースし、ファースト・アルバムにも追加をした。この依頼を受けたメンバーは当初嫌がった。だが、ニールが「このアイデアを受け入れないのなら、契約を打ち切るぞ!」というまでの態度を見せたため、従うしかなかった。
ポール「ニールには騙されたよ。あれはラジオでのプロモーション用の録音でシングル発売はしないって言っていたんだ。自分たちが作った曲で十分だったんだからカバーを録音する必要なんかなかったんだ。」
ジーン「録音する前にポールがロック風にアレンジした。たった2時間で録音してしまったよ。」
とは言っても、この “KISSIN’ TIME” がラジオでオンエアされる頻度は高く、KISSの名が浸透していくきっかけにはなったのである。
同時期にフロリダ州のマイアミではラジオ局主催のキッシング・コンテストが開催された。その大会が開催された後にその話を聞いたニール・ボガートは、アメリカ各地の13の都市で同じイベントを開催しようと計画した。各地の優勝者を集めて最後の大会でチャンピオンを決めようということになった。KISSのメンバーもこの企画に巻き込まれ、審査員という名目で各地を廻ることとなった。各会場にはプロモーションのため250枚のKISS Tシャツと500枚のポスターが配布された。優勝者にはロサンゼルスでのKISSのコンサート鑑賞券と8日間のアカプルコ旅行が授与され、TV番組「The Mike Douglas Show」への出演も含まれていた。
コンテスト・ファイナルの会場であるショッピング・モールに呼ばれたKISSは、プロモーションのために写真撮影を行っている。撮影は周囲が3階建てのバルコニーに囲まれた広場だった。ニールは写真撮影時にバルコニーの3階から$1札をばらまいた!現金に群がる数千人の買い物客の混乱は、まるでメンバーにファンが群がるような写真となった。その後、会場で数曲の演奏をしているが、その日そのショッピングモールのレコード店では数百枚のアルバムやカセットを売り上げ、多くのファンを獲得することができた。
ニール・ボガートとビル・オーカインはTVにも目を向けていた。1981年にMTVが開局するまではハードロックバンドがTVに出られる機会は少なかったが、この年にKISSは、「Dick Clark’s In Concert」、「The Mike Douglas Show」の2番組に出演を果たしている。
「Dick Clark’s In Concert」の収録は2月21日にロサンゼルスのAquarius Theatreで行われ、3月29日に放送されている。
ポール「”Dick Clark’s In Concert” への出演は、まだまだ知名度が低かった僕たちにとっては、とても大きな出来事だったよ。放送があった日はニュージャージーでのショーがあったんだ。僕たちはショーが終わるやいなや急いでホテルに戻って一つの部屋に全員で集まった。自分たちがTVで演奏しているのを観るって最高だよ。」
4月29日にはフィラデルフィアのスタジオで “The Mike Douglas Show” の収録が行われた。ジーンがインタビューを受け、キッシング・コンテストの優勝カップルもジーンと並んでTV出演を果たした。この時は事前収録ではなくライブ(生放送)で演奏がされている。(TV担当からは事前収録を薦められたが、KISS 側がライブ演奏を希望したそうだ。)また、誰がインタビューを受けるかをメンバー間で話し合った。ポール「僕は緊張して嫌だと拒んだんだ。それでジーンが行ったんだけど、横で観ていて可笑しかったよ。ジーンはわざと声を替えて“俺は悪魔の再来だよ”とか言ってるのに、共演したコメディエンヌにユダヤ・ボーイとか言い返されちゃうんだ、メイクをしてるっていうのにね!」
※今だったらポールは先頭に立ってインタビュー受けるのに…