【KISSTORY】1973年 December

KISSTORY

12月4日、メンバーはフィラデルフィアで行われたザ・フーのコンサートを観に行った。コンサート後、メンバーとスタッフは話し合い、「ピート・タウンゼントのようにステージ上でギターを壊す演出はどうだろうか?」というアイデアが出た。ちょうどその頃、ギターのGibson社とギター使用の契約交渉中であったため、ポールが破壊するためのギターを無償で提供してもらえることが確約できた。そのため、ファーストアルバムの裏ジャケットにはGibson社の名前がクレジットされることになった。

レコード発売に合わせたツアーが始まる前に、ニューヨークのクイーンズにあるCoventryで12月21日と22日の2日間、コンサートを行うことになった。これは世界戦略に向かう前の最終ステップであった。エースは「マネージメント契約もレコード契約も手に入れ、新しい機材とコスチュームも用意できた。俺たちにとって特別なライブだったんだ」と語った。当日、会場には80人から100人近くのファンが集まった。

当日のセットリストは、”Deuce”、”Cold Gin”、”Nothin’ To Lose”、”Strutter”、”Let Me Know”、”100,00 Years”、”Black Diamond”、”Baby, Let Me Go” だが、どれもレコーディングと同様に無駄な部分が省かれ、シンプルながらもスピード感や迫力が増していた。

マネージメントの戦略としては、年末の12月31日に大規模なコンサートを予定していたため、このCoventryでのショーはメンバーのウォームアップにちょうど良い機会だと考えられていた。

この日の共演はイシス、ラグス、シティ・スリッカー、そしてフレイミング・ユースであった。(※フレイミング・ユースは、後のKISSの楽曲”Flaming Youth(燃えたぎる血気)”のインスピレーションになったと推測される。)

ライブの演出には、蝋燭の燭台、ドライアイスのスモーク、ピーターのフラッシュスティックなどが加えられ、視覚的な効果を高めていた。さらに、ポールとエースはMarshallアンプを狭いCoventryのステージに積み上げ、その迫力で観客を圧倒しようとした。しかし、ポールによれば、積み上げられたキャビネットの半分は空だったという。「問題はスピーカーの数じゃなく、キャビネットの数だったんだよ(笑)。オランダのMarquis社にファイバー製のキャビネットを作ってもらったんだけど、ライトは当てないでくれって言われたんだ。だって、ライトを当てたら反対側が透けて見えちゃうんだよ。」

ジーンは、この日のショーにかつての友人であり、Wicked Lester時代に辛い別れ方をしたスティーブン・コロネルを招待していた。スティーブンはショーを存分に楽しんだようで、「ヒールを履いて巨大になった彼らは、まるでモンスターのようだった。演奏された曲もどれも本当に良かった」と語っている。

Coventryのショーには、ラモーンズのメンバーも観に来ていた。ラモーンズとKISSは、同じ時代にニューヨークで活動していたバンドである。ジョーイ・ラモーンは当時を振り返り、「KISSは今まで聴いたことがないくらいにラウドなバンドだった」と語っている。また、トミー・ラモーンは「Coventryでのショーはまったく凄いショーだった。力強くユニークなサウンドでプロフェッショナルだった。他にもメイクをしたバンドはいたが、そいつらはドールズやツイステッド・シスターみたいなグラムロックのメイクだった。KISSを括るカテゴリーはなかったんだよ」と語っている。

ラモーンズのメンバーのみならず、この日のライブを見た全ての観客、そして当時のニューヨークで活動していた全てのライバルたちも、KISSの演奏と演出の素晴らしさに雷に打たれたような衝撃を受けた。KISSがCoventryのような小さなクラブでは収まりきらない、誰にも止められない勢いを持ったバンドに成長したことに、彼らは興奮を隠しきれなかった。

ビル・オーカインは語る。「KISSと仕事を始めた時から、彼らの成功を信じていた。KISSは明確な目標を持ち、それを達成するために自らをコントロールしていた。多くの新人アーティストは、ただ幸運が訪れるのを待ち、誰かに導かれることを夢見ている。しかし、KISSは違った。1973年12月の時点で、彼らはアルバムの発売と、間近に迫ったツアーに胸を躍らせていた。彼らの情熱の全てが、Coventryでのショーで爆発したんだ。」

※Coventryのショーで、ジーンはベースの弦が切れるというトラブルに見舞われた。ステージ上でベースの弦が切れるのは非常に稀なことで、予備の弦はなかった。ジーンに頼まれたスタッフのエディ・ソーランは、なんとPA固定用に使っていたワイヤーの切れ端をジーンに手渡した。ジーンは弦(実際はケーブル)の代わりがあることに驚いたが、なんとそのワイヤーが代替品の役割を果たした!(とエディは語っているが、真偽は定かではない!)

Coventryのオーナーは、ニューヨークのthe Dairy Newsでロックコンサートのレビューなどを担当していた当時20歳の記者スタン・ミエセスに、「面白いバンドがいるから観に来てほしい」と誘った。スタンは初めてKISSを観て、(音楽的には多少趣味から外れていたものの)、非常に強い関心を抱き、ショーの詳細を記事にした。「KISSの個性は、他のどのバンドとも異なる特別なものだ!」5年後、the Dairy Newsの記者として多忙を極めていたスタンは、KISSの来日公演に同行することになった。飛行機のファーストクラスで、なんとジーンの隣の席に座ることになった。スタンが自分の名前を告げると、ジーンは目を丸くして、財布から古い紙切れを取り出した。「君がこの記事を書いたスタン・ミエセスか!」それ以来、ジーンとスタンは親密な友人となった。

■1973年12月31日 New Year’s Eve

実は、完成したレコードとジャケットを受け取ったWarner Brothersからは、ニール・ボガートに対して「メイクを落としてデビューさせろ」という指示が出ていた。当時、アリス・クーパーのレコードセールスが落ち気味であり、同じジャンルと判断した大手レコード会社の重役たちは、メイク路線を嫌ったのだ。ニールから連絡を受けたビル・オーカインは、リハーサル中のKISSに質問した。「実はWarner Brothersからメイクを落とせと言われている。君たちはどう思う?」この質問に対するメンバーの回答は明確だった。「メイクを落とす気は全くない。メイクを含めた全てがKISSなんだ。このままを受け入れるのか、全てやめるのかを判断してほしい。」その後、ビルとニールがWarner Brothersを説得し、この件はなかったことになった。

1973年12月31日、ついにKISSは初の大きなステージ、New York Academy of Musicに立つことになった。この日は、ティーンエイジ・ラスト、イギー・アンド・ザ・ストゥージズ、ブルー・オイスター・カルトのオープニングアクトを務めることになった。(New York Academy of Musicは後にPalladiumに名称を変更している。)New York Academy of Musicは、4,800人収容可能な大規模な会場だった。実は、この日の出演者リストにKISSの名前が載ったのは直前のことだった。他のバンドのメンバーも、そのことを知らなかった。

KISSのメンバーは、ベンツのリムジンで会場に乗り付けた。ポールは語る。「この日は、後に出演する奴ら全員をぶっ飛ばしてやろうと思っていた。クラブ時代に別れを告げ、新たな歴史を切り開こうとする僕たちにとって、絶好の機会だった。」

この日のコンサート前に、写真家ボブ・グルーエンによるフォトセッションが行われた。レコード発売に合わせた販促ポスターやプレス配布用の写真撮影である。ボブ・グルーエンは、ニール・ボガートがBuddahレコード時代から共に仕事をしてきた写真家だった。この日は、ニールもメイクをして登場している。

KISSは、ステージの両サイドにMarshallアンプのキャビネットを積み上げた。左右それぞれに10個ずつだ!さらに、ビル・オーカインは、この日のために巨大なKISSロゴの照明サインをバンドに内緒で用意していた。このKISSサインは、今やKISSのトレードマークとも言える、なくてはならないものになっている。当時、照明ライトでできたバンドロゴなど、他のどのバンドも持っていなかった。その巨大なKISSロゴは、まだ観客が入場する前にステージ後方に設置された。KISSの登場に合わせて全てのロゴが点灯された時、観客の目にKISSのロゴが焼き付き、目を閉じてもKISSの文字が消えることはなかった。また、その巨大なKISSサインは、他のアーティストが演奏している間もずっと後方に掛けられたままだった(もちろん点灯はしていなかったが)。

演奏が始まると、客席は一様にざわめき、共演者たちも目を見張った。「いったい全体、こいつらは何だ!!」

この日のショーでは、思わぬアクシデントが発生した。ジーンがフラッシュペーパーを使ってステージ上で閃光を放とうとした時、その閃光が最前列にいた少年の顔に当たってしまったのだ。至近距離でのフラッシュペーパーの爆発に、少年はその場に崩れ落ちた。この様子をミキサー卓の前で見ていたビル・オーカインとエディ・ソーランは、口をあんぐりと開けたまま顔を見合わせ、「今日はKISSの歴史の始まりの日だったが、終焉の日になってしまった」と思ったという。少年の元には、すぐにROCK STEADYのジョイス・ボガート・ターナーが駆けつけ、安否を確認していたが、しばらくして少年は立ち上がった。顔には火傷を負っていたが、ショーの後で少年はバックステージに来て、「Wow!今まで観た中で一番エキサイティングなショーだったね」と語った。幸いなことに、少年はKISSの熱狂的なファンだったのだ。その後、少年は救急車で病院に運ばれたが、運ばれる直前にもレポーターに「KISSは僕の一番好きなバンドさ!」と語っていた。この出来事以来、ジーンはフラッシュペーパーのトリックを使用するのをやめてしまった。

もう一つの大きな失敗は、ジーンの火吹きだった。なんとジーンの髪に引火してしまったのだ。実は、火吹きを行ったのはこの日が初めてだった。ジーンは語る。「New York Academy of Musicのような大きな会場には、これまでスレイドやアージェント、フリートウッド・マックなどを観に来ることしかなかったから、何か印象に残ることをしたかった。当時は、髪の毛を少しでも大きく膨らませようとしてヘアスプレーを大量に使っていたんだ。3曲目の”FIREHOUSE”が終わる時に、火を吹くことに決めていた。でも、その火がヘアスプレーの成分に引火してしまい、右側の髪が燃えてしまったんだ。」引火したのは、火を吹いた瞬間ではなく、火のついた剣を下に置くために腰を落とした時だった。ジーンは、最初は自身の髪が燃えていることに気づいていなかった。ステージ袖にいたショーン・ディレイニーがすぐに事態に気づき、濡れタオルでジーンの頭を覆って鎮火した。ジーンは、演奏後にバックステージの鏡を見て、自分の右側の髪が6cm近く短くなっていることに気づいたのだった。

KISSの後に出演した3バンドには申し訳ないが、この日の観客の記憶にはKISSのパフォーマンスと巨大なロゴサインしか記憶に残らなかったに違いない。

※実は、演奏中にポールのパンツのトップボタンが弾けて飛んでしまった。ポールは、ギターでパンツを押さえながら演奏していたという。

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